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【小説】カラマーゾフの姪:ガチョウたち(9)

○場面:2020年の喫茶店。

○人物
彩田あやた守裕もりひろ:大学院で数学を研究する院生。小芳とは初対面。
弥生やよいけい:彩田の従弟。大学2年生。
小芳こよし弥生やよいけいのサークル仲間。人間のデジタル化についての思想を展開した。
曲丘かねおか珠玖たまき:ITフリーランスの女性。彩田の最近の友達。同い年。小芳と論争中。

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小芳こよし
「ならあなた自身は、他の人間はどうであれ、少なくともあなた自身は、愛されて悲劇に苦しむよりは、永遠の孤立を選ぶというのですか」
曲丘かねおか珠玖たまき
「………永遠なものなどありませんよ。……あなたの願いに付き合ってみましたが、実際の所、永遠なんて願いは叶いません。永続的なもの、閉鎖したものは共に滅ぶ。だから不確実性が要る。……だから、身体性だけが生きる価値があるんですよ」
 小芳は曲丘の眼を注視していた。「あなたはそう考えるんですね。それがあなたが信じるもの、それがあなたの思想なんですね、…曲丘さん、…とても興味を持ちました。……お願いです。もっと教えてください、あなたのこと」
「……どういう風の吹き回しですか」
「あなたに教えて欲しいんです。色々なこと、あなたの考えること、それからコンピュータのことも」
「そんなことして、私にリスクしかないでしょう」
「あなたの忠実な手足になりますよ」
「………これは同意ではないと先に言っておきますが、………一つだけ忠告してあげることがあるとすれば、………あなたは、生活というものを、もっと苦労してみることですね」
「……それはどういう意味ですか」
「文字通りの意味です。生活という言葉が指すものを、もっと必死にやって、泥臭く生きる苦労を積むといいと言ってるのです」
「…………分かりました。………確かに、泥臭い生活の苦労というものを知ってはいても、体験したことはないです」
「…どうして知っていると言えるのですか?」
「……農家を沢山見てきましたし、……それに僕は、…民衆を愛していますから」
「…傲慢ですね」曲丘の頬が不織布の下で傾いて綻んだ。「……傲慢そのものです、この上ない。…………私も、あなたに教えて欲しいことはあります」
「何ですか」
「色々ありますが、……一つだけ選ぶとすれば決まっています。…もう一度聞きますよ。誰が、あなたにそんな愚論を吹き込んだのですか」
 小芳は新しい来客の入店も気付かず溜息を吐いた。「……さっきも言ったでしょう。ジャン・ピムズラーと児磐こいわ克人かつとって」
「本当ですか? その二人をどこで知ったんです」
「………あなたの知らない人ですよ。知り合いの女性です。よく話すんです。……物事の判断の早い人で。進歩的な人です」
「名前は?」
「別に有名人ではないですよ」
「どうでしょうか。…いえ、興味ですよ。名前というのは何の情報も含まないのに、最もその存在を物語る。どんな民衆にも一人一人名前が有るのだということ、…それもまた生活を積めと言う意味ですよ」
「……分かりました。……その人の名前は、ゆ」
「小芳君?」通りがかりに女が言った。
「…ナルキさん」
「…と、……友達の…」
 彼女に対する小芳の呼名と、その若い女が弥生に向けた言葉が重なり、………数学科の青年は女の名前を聞き取れなかった。ただ「ゆ」の音で始まっていないことだけは分かっていた——。
「やっぱり、かっちゃんか」
 曲丘が言った。「かっちゃんとは彼のことですか」
「はい。……今日はいろんな人といるね、かっちゃん」
「その呼び方止めてくれ」
 曲丘がナルキに尋ねた。「彼の名前を御存知なのでしょうか。さっきも自分の名前が嫌いだって言ってましたが」
「ぇ………………………………ぁいや、ごめんなさい、……カツイチ…です、…彼」
「ちょっと、ばらさないで」
「……ごめ…いや逆になんで名乗ってないのよ」
「どういう字ですか?」
「言うなよ」
 弥生が静かに告げた。「勝利の勝に市場の市です」
「お前まで」
「どうして自分の名前が嫌いなのですか?」
「だから、……昔の公務員みたいで嫌だって言ったろ」
「そうでしたっけね」曲丘は軽い調子で言った。「勝市君」
「だから止めろって」
 ナルキが小芳に対してとは違った静かな口調で尋ねた。
「……あの、……あなたのお名前は?」
「曲丘珠玖です。曲がった丘と書いて曲丘です。丘は兵隊の兵から足を取った方の丘です。……あなたの方は?」
「……あ、…ぁん、……ことでいいです、特殊の殊で」
「……もしかして人見知りしてる?」
「う、うるさいな、ちょっと黙ってて。……えっと、お二人はどういう関係で…?」
「……さあ、私もよく分かりません」
「新しい先生」
「なった覚えはありませんよ」
「これからいろいろ教えてもらうんだ」
「…殊さんの方は?」
「…大学でTAをしてて、彼がよく質問に来てたんです」
「というと大学院生ですか?」
「はい、そこの。まあ今はオンラインで、直接会ったのは久しぶりですけど」
「俺の師匠です」
「……指南役がいっぱいいて楽しそうですね」
 ナルキが表情を改めた。「…その、先生…でしたっけ。えっと、どういう経緯で……」
「彼が勝手に言っているだけです。私は、こちらの彩田あやたさんの従弟の、弥生やよいけいさんの相談を受けに来ただけです。そうしたら彼がいて、帰れと言っても帰らず今に至ります」
「でもさっきまで教えてくれていたじゃありませんか」
「私は君の思想をたしなめていただけですよ」
 ナルキは表情を締めた。「うちの学生が失礼しました」
「あなたが謝ることじゃありませんよ。何の責任で謝るんですか。大学生に礼儀作法の指導なんてないでしょう」
「…それはそう……ですね……? いやそうなんでしょうか……。……いや本来そのはずなんですけど……」
「この国の大学は敗北ですね。そして礼儀作法という宗教を強制する側が金を持ってるので、雇用市場の買い手側の完勝です」
「……すごいこと……言うんですね…」
「どう綺麗事を言っても、パンにサクランボジャムを塗れる人間が愛されるんですよ。パンが食えればよしという時代は終わりました。パンは食えます、先進国ならね。でもそれだけで満足できなかった、みんなが。ジャムはなければならない。そしてパンが食えない恐怖も忘れることができない。……そういう時代ですよ」
「だから」小芳が続いた。「人間が身体から解放されればいいと、僕は言いました。そうすれば貧富も美醜も世界からなくなるでしょうから。でもそれを諦めてでも、肉体を生きる価値があるのだと、曲丘さんは言いました。だからそれを学びたい。それで先生になって欲しいって言ったんです」
「進歩は前提として変化でしょう。だから悲劇もろとも不確実性を受け容れるべきだと言っているのですよ」
「身体のないネットワークでも不確実性は起こりますよ」
「それでも身体性を伴えば、より不確実になる。単純に、人間は身体の維持のために、栄養資源のネットワークにも加わることになる。ネットワーク一つ分の不確実性を抱えることができる。そして不確実性を踏まえてなお、エントロピーを下げることができる。このバランスが健全な生命を育てる」
「エントロピーを下げることは人為的に可能でしょう。身体のないネットワークでも」
「人為的な秩序はろくなことになりません。…歴史を見れば明らかでしょう。為政者の歴史をね」
 その時に救急患者を運搬する大型車両が甲高く非常時報知音を鳴り響かせながら店先を通過した。その音源が遠退いてからナルキが言った。 


 お読みいただきありがとうございました。「ガチョウたち」(10)も近日公開します。

 初めから読む時はからお願いします。
【小説】カラマーゾフの姪:ガチョウたち|浅間香織|note

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