【心に響く漢詩】李白「哭晁卿衡」~阿倍仲麻呂の訃報に哭す
奈良時代、阿倍仲麻呂(698~770)は、入唐留学生として遣唐使に随行し、717年、19歳の年に、唐の都長安に赴きました。
到着後、はじめは太学(国立の最高学府)で学び、科挙に合格し(あるいは推挙により)唐王朝の官吏となります。玄宗の厚遇を受けて、数々の官職を歴任しました。
唐名を「晁衡」と称しました。詩題にある「卿」字は、歴任した官職の中の一つ「衛尉卿」(宮殿の警備を司る官)を指すものです。
李白や王維らと朝廷で知り合い、親交があったと言われています。
長らく唐で役人勤めをした後、天宝12載(753)、寧波(浙江省)から日本へ帰国の途に就きますが、暴風雨に遭って船が難破してしまいます。
「哭晁卿衡」(晁卿衡を哭す)は、晁衡が亡くなったという知らせを聞いた李白が哀悼の意を示して詠じた七言絶句です。
――日本の友人晁衡は、都長安に別れを告げて、
ひとひらの帆かけ船に乗り、蓬莱をめぐって去っていった。
明月の珠は碧海に沈んでしまい、もはや帰ってくることはなく、
白い雲が愁いの気を漂わせながら蒼梧の地に立ちこめている。
「蓬壺」は、蓬萊山の別名。東方の海上にあって神仙が棲むという島です。「三神山」と呼ばれる「蓬莱・方丈・瀛州」は「蓬壺・方壺・瀛壺」とも言います。
「明月」は、一般的には、高潔な人物を喩え、晁衡を指すとしていますが、一説に、「明月之珠」(明月のような真珠、自ら光り輝く珠玉)のこととしています。李白の「書情贈蔡舍人雄」という詩にも、
倒海索明月 海を倒にして明月を索む
(海を逆さまにひっくり返して珠玉を探し求める)
という句があります。
この説の方が、より妥当な解釈であるように思います。月は水平線の彼方に沈んでもまた昇りますが、珠玉はいったん大海原に墜ちたらもう探しようがありません。いずれにしても、「明月」が晁衡を指すことには変わりありません。
「蒼梧」は、伝説上の帝王舜が巡幸中に崩じて葬られたとされる地です。
舜は巡幸、晁衡は帰郷ですが、いずれも旅の途中で亡くなったという連想を意識して用いた語なのかもしれません。
こうして李白は、異国からやって来た友人の不幸に深い哀悼の意を込めて詩を詠じました。
ところが、実は、晁衡が亡くなったというのは誤報でした。
船は安南(今のベトナム)に漂着し、翌々年、晁衡は長安に戻っています。
そして、再び官職に就き、粛宗・代宗に仕え、ついに日本に帰ることなく、唐土でその数奇な生涯を終えています。
今日では、李白と阿倍仲麻呂の情誼は、日中友好のシンボルとして謳われ、西安の興慶公園にある阿倍仲麻呂の記念碑には「哭晁卿衡」の詩句が彫られています。
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