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【第8章・揺れる思い】融女寛好 腹切り融川の後始末(歴史小説)

第八章  揺れる思い

 栄を乗せた町駕籠が行く。
 奥絵師・板谷桂意の屋敷は神田鎌倉横町にあった。現代の神田駅西口を出て少し行った辺りで、浜町からだと、女性の足で歩いて四半時(三十分)程度の距離である。
 駕籠屋の健脚で時間短縮できるのは助かるが、えっほ、えっほ、という前後から聞こえる掛け声が何とものん気で、栄の今の心情にそぐわないこと甚だしい。

 思わず、ため息が出た。融川の死は悲しい。しかし、栄が十年かけて育んできた恩師のイメージと、下城途中に駕籠の中で割腹して果てるという過激な行動が、どうにも結びつかない。

 駕籠の揺れに合わせて、栄の思考も揺れている。弟子入りしたのは、九歳のほんの子供のときだった。最初は、何度も何度も絵手本の描き直しをさせられ、山のような課題を与えられ、泣いてばかりいた気がする。
 しかし、数年が経ち、周りが少し見えてくると、融川が才能ある者に限って厳しく指導していることが分かってきた。

 奥絵師の画塾には、系列の表絵師や各藩のお抱え絵師の子弟も多い。家の跡継ぎとして嫌々絵画修行している者もいる。弟子と言っても、才能や性格はもちろん、目指すところも様々なのだ。
 融川は、弟子の一人一人について、その適性を見て指導していた。若さ故、時には熱血指導になることもあるが、決して無理は言う師匠ではない。

 私生活の面ではどうか。確かに、遊び好きの融川、女好きの融川、などという噂は聞いている。吉原では自分専用の高楼を建て、大名の隠居たちと真っ昼間から豪遊したとか。柳橋では芸者衆をかき集め、数日に渡って飲めや唄えの大騒ぎをしたとか、いろいろだ。

 しかし、栄は女性だから、そうした場所に同行したことがない。融川は確かに酒好きで、酒を飲む姿は何度も見ているが、それはむしろ、いい思い出だった。

 公儀や大名家から受けた大きな仕事を終えると、家臣から弟子まで引き連れて近所の料理屋で打ち上げをやるのが融川流だ。その際は、女性の弟子も参加する。

 浜町狩野家の酒席は至って気持ちのよいもので、男でも女でも、飲みたい者は飲むし、飲めない者には料理や菓子がふんだんに用意される。それぞれ好き勝手に楽しむ方式だ。
 絵師の集まりだから、即興のお題で画を描く「席画」をやったりもする。そして、栄が何より好きなのは、融川を中心に皆で絵画について論じることだ。古今の名画や絵師たちについて、ああでもない、こうでもない、と論じ合うのだ。これが実に楽しい。

 女好きも、あくまで外でのことだと思っている。屋敷内では、高級旗本の姫君である奥様のことを大事にしていて、源氏物語を題材にお姫様を描くときなど、我が家には生きた手本がいるから描きやすい、などとのろけていた。

 無論、女の弟子や奉公人に手を付けることなどあり得ない。名門たる旗本格奥絵師の屋敷にやって来る若い女性は、系列の絵師や出入り商人の娘が多く、ほとんどが嫁入り前の行儀見習いであった。変なことがあれば大騒動になるし、以降、女の弟子や奉公人は来なくなる。
 融川は、十五の時に父親の閑川昆信を亡くし、浜町家五代目当主となった。若くして一門の統率者となっただけに、それくらいの分別がないわけがない。

 そして何より、融川の描く画のことである。

 かつて融川が、両脇に桃花、中央に西王母という三幅対の掛け軸を描いたことがあった。その際、栄は助手を務めた。
 目の前で描かれていく画は、線は正確で繊細、彩色は上品。余白をたっぷり取った探幽様式で、全体の均衡が心地よい。そして、左の桃花は純白、右にはわずかに朱をさして描き分ける。中央に鎮座する西王母も女神に相応しい気高さと美しさ、という見事なものだった。

 あんなに美しい画を描く人が、いきなり切腹なんてするだろうか。考えれば考えるほど混乱する。
 あっ、そう言えば、英一蝶の「朝妻船図」の模写をされていたことがあったわね。先生は一蝶がお好きだから。

 英一蝶は、江戸中期の狩野派絵師である。幼少期から画の才能を認められ、探幽三兄弟の末弟・狩野安信に弟子入りしたが、行状不良により破門された。
 しかし、彼はそれを機に飛躍した。翼を得た鳥の如く自由に画を描くようになった。風刺画も描いた。「朝妻船図」はその代表作である。将軍の愛妾を遊女に見立て、上流階級の風紀の乱れをあざ笑ったものだ。そのため、不敬罪により遠島に処された。しかし、配流先の島でも画を描き続け、遂には自ら一派を起こすまでになった。市井の民の姿を活写した傑作を多く残している。

 まさか、遠島になった一蝶を超えようと自分は切腹? ないない。あるわけがない。そんな酔狂な人間がいるものですか。ああ、もう。頭が変になってきたわ。

 栄があれこれ考えている内に、彼女を乗せた町駕籠が、板谷屋敷の前に着いた。駕籠を降りてふと見上げた西の空が、乱れたすじ雲に覆われ、朱に染まり始めていた。

次章に続く

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