【Z世代社会人】「迷惑をかけるな憲法」に呪われている私たち
こんにちは!アメリカの栞・かんなです。
先日、こんなポッドキャストを聞きました。
このエピソードのゲストであり、「ケアしケアされ、生きていく」の著者である大学教員の竹端寛さんは言います。
「最近の大学生は、日本の憲法はちゃんと分かってないのに、迷惑をかけるな憲法だけは本当にしっかりと刷り込まれている。」
ここで、MCの神田さんが、「日本国憲法が分かってるかどうかは人によって違うでしょうけど」という痛快なツッコミもあるのですが、それにしても「迷惑をかけるな憲法」とは耳が痛いです。
なぜなら私は、この「迷惑をかけるな憲法」はまさに今、自分が感じているの生きづらさの根本的な部分だと思うからです。
「迷惑」は曖昧で便利な言葉
そもそも「迷惑」とは何か?という話ですが、ちょっと辞書を開いてみました。
不利益と不快とあるように、迷惑には客観的な物差しと主観的な物差しが混在していることがわかります。
だからこそ、何が迷惑で、何が迷惑でないのかの線引きは難しい。
そもそも「迷惑」の範囲が広すぎて、相手に手間をかけることや他人と違う意見を言うことが「迷惑」にカテゴライズされている可能性もあります。
しかし、手間をかけることは、迷惑とイコールではありませんし、みんなとは違う意見を言うことは、また迷惑とイコールではないはずですよね。
「ご迷惑おかけします」というパフォーマンス
「迷惑をかけるな」の言葉の裏には、
迷惑は悪いことで、恥ずべきことであるという意識が根底にあり、
「迷惑をかける人間」も悪であり、恥であるという認識が社会に広まっていると思います。
そしてだからこそ、自分が迷惑の原因にはなりたくないという思いが強くなるばかり。
だから、仕事で資料を一つお願いするだけにも、「ご迷惑おかけします」という言葉をまるで「迷惑をかけない私」をアピールするパーフォーマンスのために口癖のように使用してしまいますし、
その逆も然りで、「遠慮しないで、〜してね」という言葉を「私は迷惑を感じないよ」というアピールをするために使ってしまっているのかも、と自分の癖に気づきました。
このように、相手の顔色を伺いながら、常に緊張した状態で人と関わるから、生きづらさが生まれ、苦しいんですね。
「迷惑をかけるな」の呪い
結局のところ、人間が生きていれば、誰かの負担になることは必ずあります。
しかし「迷惑=悪・恥」という概念に囚われすぎて、甘えること、頼ること、お願いすることも、「迷惑」だという風に錯覚してしまうのではないでしょうか。
自分でいろんなことを背負い込んで、なんでも自分で解決しようとしてるうちに、他人に上手に甘えたり、頼ったりする人を見ると、妬ましく感じてしまうという悪循環も起きてしまいます。
本当は、みんな誰だって甘えても、頼ってもいいはずなのに、「迷惑をかけるな」という呪いにかかってしまうと、自分の心の余裕がなくなって、相手への寛容さも忘れてしまう。
そしてそんな自分も嫌になってしまうという負の連鎖が起きてしまうのではないでしょうか。
おまけ「失礼をするな憲法」
余談ですが…「迷惑をかけるな憲法」の他にも「失礼をするな憲法」も存在するなと思ってます。
またそのうち考えがまとまったら、ノートに考えを残しておこうと思います。
それでは!
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