見出し画像

Buen Camino 2022 あなたも巡礼に出かけてみませんか? ㉒

(22)「ウクライナからの巡礼」

 9/5(月)第18日、曇り
 朝、道端のベンチで休憩して食事をしていたら、昨日のY氏が追い越して行った。その後、突然携帯電話がなり、日本からだったのでびっくりした。相手は、私が既に帰国しているものと思っていたようで恐縮していた。まるで日本国内にいるかと思うくらい鮮明であった。

 この日はぶどう畑の中を歩いた。見える限り一面のぶどう畑である。日本のような棚がないので低い。道の向こうで、ちょうど収穫作業をやっていたので、手を振ったら向こう側からも振り返してくれた。この間だけの季節労働者であろうか。若者が多かった。道端にトラックが止まっていたので近づいて見ると、荷台に収穫されたぶどうが積んであった。実は黒くて小さい。それをバケツに入れて、肩に担いでトラックまで往復するのだ。

摘み取った葡萄をトラックまで運ぶ

 新約聖書に描かれたぶどう園の労働者の話を思い出した。その労働者もきっとこういう作業をしていたのだろう。私が写真を撮っていると、ヴィーノ(Vino、ぶどう酒)だと教えてくれた。帰国して、ブドウ栽培をしている友人に話すと、皮の酸っぱさが大事なので、実が小さいのだそうだ。

実は小さい

 中世風の雰囲気を濃厚に残した次の町に入る。お決まりのように古い教会があり、砦があった。そして、時代劇のロケができるのではないかと思うような町の中に足を踏み入れる。道幅が狭いので、車が通ると避けるのがギリギリだ。

谷合にできた町

 適当なレストランがみつからないので、スーパーでパンを買って、道路脇のベンチで昼食をとった。前を行く人たちが挨拶をして通っていく。大きな道を離れて細い旧坂を登って行ったが、どうも雰囲気が違い、引き返す。多分、昔の道なのだろう。

 町を出ると道路脇の坂の道をどんどん登って行き、やがて高速道路にぶつかり、殺風景な道路脇をただひたすら歩む。何回か橋脚が高い橋の下をくぐる。途中、巡礼だけが利用すると思われる休憩場所があった。いい加減、飽きた頃にやっと高速道路から外れ、一般の道沿いを行く。巡礼路にはこういう殺風景で退屈な道もある。途中、ドライブインで一休みして、アイスクリームを食べた。
 そろそろ今日の宿の村が近づく頃だが、適当なアルベルゲが見つからない。というのは、アルベルゲの看板があっても閉まっているのだ。この辺りの村は、日本の宿場町のように、カミーノの道沿いに発展した町のようである。だから他にめぼしい産業は見当たらない。それがコロナによるパンデミックで巡礼客が減り、廃業に追い込まれ、さびれているのではないだろうか。

 ようやく営業しているアルベルゲが見つかったが、客はいても受付が外出している雰囲気で、しばらく待ったが諦めて、次を探すことにした。幸い、もう少し行った谷沿いの村ベガ・デ・バルカルセVega de Valcarseに同じようなアルベルゲがあり、そこに宿をとった。

 夕食は教えてもらった村の売店で買ったハムやチーズをパンにはさんで(ボカディージョという)、キッチンで食べた。横で二組のイタリア人が食事の準備をしていて、たくさん作ったので一緒に食べろと誘ってくれた。もう食べたからと断ったが、是非と言われ、仕方なくお相伴することになった。もう一人、同部屋のポルトガルからきた女性も一緒で、都合6人の食事になった。

イタリア人のカップル2組

 日本人である私がどうして巡礼をしているのかと聞かれた。そこで、F.ザビエルの話をしたが、誰もザビエルの名前を知らなかった。イタリア人は仕方ないが、ポルトガル人が知らないとは解せなかった。後でわかったが、このポルトガルの女性は、ポルトガル領マディラ諸島から来ており、ウクライナの難民であった。彼女が学校で習った歴史はロシアの歴史であったという。60歳という年齢から察すると旧ソ連時代であろう。キーウに住んでいたが、今は子や孫と別れて大西洋の島に住んでおり、別離の深い悲しみが感じとられた。彼女は孫がウクライナ国歌を歌う動画を私たちに見せてくれた。

    「スペインの巡礼宿で動画見る 孫が歌いしウクライナ国歌」

 動画は、ここがヨーロッパと地続きであることを改めて感じさせた。彼女は私に何か話したそうにしていたが、私が明日朝早く出ると言ったので、それっきりになってしまった。もう少し、いろいろな話を聞いておけば良かったと後悔している。と、同時に、そのウクライナの姿に、かつての「大日本帝国」によって皇民化教育という同化政策が行われた朝鮮の姿が重なって見えた。朝鮮では言葉と歴史が奪われ、日本の「国語」と、「皇国史観」が教えられた。(30.7km、46,378歩)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?