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みんなのフォトギャラリー#3

この写真は2023年12月17日時点で、14の記事で利用していただいている。ありがたい。

何を撮ったか

撮影はもはやいつだかわからない。4、5年前だろうか。
江ノ島水族館のクラゲを撮影した。
江ノ島水族館は「クラゲファンタジーホール」というクラゲだけの展示を長年行っており、神秘的な空間が味わえる。クラゲが美しくライティングされているので、その雰囲気をそのまま写真に収めた。

https://enosui.com/exhibition_jellyfish.php

撮影者の想い

当時は正直そこまで「想い」みたいなものがなかったと思う。ただただ、写真を撮ること、カメラを扱うことが楽しくて、「撮ってみた」くらいの気持ちだった。

ただ、noteに掲載した時は以下のようなイメージを持ったようだった。

海月。
もはや模様だと思う。
何も考えず、
生きている感じも、死んでいる感じもせずどう使われたか

どう使われたか

お使いいただいた14記事のうち、特に印象的なものをご紹介する。

こういう理由で僕らは孤独であるのに、複数形であり続けている。海月みたいに弱い僕らは、あの懐かしい汀に打ち上げられて干からびるその日まで、ずっとこうして漂い続ける。

人が、「僕ら、私達、我々」など一人称複数系を使うことについて理由を考察したのち、”僕ら”をクラゲに見立てている。クラゲファンタジーホールの空間に”僕ら”が引き込まれるのは何か近いものを感じるからなのかもしれない。

このnoteの内容の真偽はさておき、僕とは違う価値観や信念のもと人生を歩んでいる方のようで気になった。

予知というと正直僕にはよくわからない世界ではあるが、そういった超越的な何かとクラゲはイメージ的に結びつくものがあるかもしれない。

クラゲを題材にした作品の紹介記事としてご利用いただいた。
知らない作家さん、知らない作品だったのでとても気になった。これは読んでみたい。

今日こそは片付けようと意気込んでいたのだけど。何か朝からずっと下らない考えごとしてて、しかもそれがまとまらなくて、詰んでいた。

このどっちつかずに漂う感じがクラゲのイメージなのだろうと思う。
自分自身、小さなことも大きなことも、思い描くはいいもののなかなか動き出せないということがある。ときにはただ漂うだけの時間も必要。とは言いつつ、地に足をつけて一歩ずつ歩きたい。

僕の写真はHSPの方、うつ病の方に一定お使いいただいている。(そういう写真を撮っている自覚はある)
でもこのクラゲ写真を撮影した当時はそんなこと考えていなかった。

鬱の波との付き合い方は、波に漂うクラゲとは違うように思う。そして筆者さんはそれもわかった上で、「クラゲのようにただその流れに身を任せることはできない」「そんなふうで済ませられればいいのに」という想いでこの記事を書かれたのではないか。

ベニクラゲの若返りについての研究本を読んだ話から、読書それ自体について書かれたnote。

何の役に立つのかと言われたら返事に困ってしまうが、こういった知識を知るということは中々楽しい。多分、しばらくしたら忘れてしまうだろうが、それならそれで構わない。本を読んで集中するという行為が私にとっては重要なのである。

読書は、その本を面白いと思っていられる自分でい続けるための行為なのかもしれない。

クラゲに刺されて、納豆アレルギーになる

こんなことがあるとは。知らなかったので、それだけでも純粋に面白かった。

世の中には一見すると無関係なように思われて、実は相関関係や因果関係になっているようなことが散見されます。

この言葉にはハッとさせられた。
クラゲと納豆の話は身体的な話だが、社会、経済、政治などの話にもそういったことはあると思う。


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