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発達障害×犯罪というタブー『となりの少年少女A』感想

元法学部・刑法専攻ということもあり、私は刑事事件にかなり興味がある。

特に興味があるのは「犯罪者はなぜ犯罪をするのか」ということ。犯罪心理、ともいえるかも。

そんな疑問の一助になりそうな本を見つけたので、読んでみた。

今はあの時の知識とかほぼ忘れてしまったので、もう一度勉強しなおしたいな〜。



本の内容

日本中を震撼させた、凶悪未成年犯罪たち。

なぜ彼らは人を殺したのか?
その裏の要因として、「発達障害」が隠れている可能性がある。

発達障害への言及がタブーかする中、はたして加害者に対する適切な更生教育ができているといえるのか?

周りの人が見落としていた「シグナル」とは?

未成年犯罪と発達障害の関係という、タブーに切り込む。


大前提として大事なこと


著者は発達障害と未成年犯罪との関係を示唆している。
しかし大前提として、「発達障害が犯罪の原因ではない」とも主張している。

「発達障害」というのは、あくまで犯罪の「要因」の一つに過ぎない。「原因」ではない。

発達障害以外に、生育環境や、遺伝子、生まれ持った本人の気質など、そういった複数の要因が相互に影響しあい、犯罪につながる。

大衆は愚かなので、何か一つの要因をファクターとしてあげると、それが「原因」だと思い込む。
結果、差別的議論だけが盛り上がり、根本的な解決策という議論は進まない。

それが犯罪者を増やす要因でもあると思うんだけど……。

決して発達障害=犯罪者という安直な結びつきをしないようにしてほしい。


「発達障害」という要因

さて、実際に未成年犯罪者と発達障害に関わりはあるのか。

これについては、「ある」と断じざるを得ない。

本書にあげられた、超有名・未成年凶悪犯罪者たちは、審判過程で、全員なんらかの発達障害の診断(特にASD)がおりているようだ。

犯人たちのこだわりの強さ、コミュニケーションの歪さなどをみるに、ASDが犯罪の要因になったことを認めるしかない。

これは、私が本書を読んだ感想としてだけでなく、ASD当事者としての肌感覚でもある。

発達障害者のフラストレーション解消法としては、主に2つに分けられる。
「自害タイプ」と「他害タイプ」だ。

私は自害タイプであり、フラストレーションが自殺企図や自傷行為に向かう。
未成年犯罪者たちは、「他害タイプ」だったのだろうなと思う。

そう考えると、やはり発達障害の影響は大なり小なりあったと思う。

そこで大事なのは、発達障害の影響を認め、他害をしなくなるような更生教育を行うことだ。

だが、発達障害を犯罪要因として語ることがタブー化されている現代、発達障害のある犯罪者に対する、具体的対処法が確立されてないようだ。

つまり、未成年犯罪者が少年院に行って何年か過ごせば、根本的解決がなにもなされないまま社会に出てくるというわけだ。

意味がない。
罪を犯した少年たちが、とても更生したとはいえない状態で社会に出てくる。

「少年法」によって守られて、社会的制裁を受けることもない。

まったく、被害者は殺され損としかいえない。


責任能力と発達障害

加害者に「責任能力」が無いと判断されると、例え殺人を犯していても、無罪となる。

これは、刑罰が「罰」として与えられるのではなく、犯罪者の「教育」のために与えられるのだ、という考えが根本的にあるからだ。

責任能力が無い人間に教育としての刑罰を与ええも、更生教育が理解できないため、教育をする意味がない。
また、犯行時に自分の意思でない「何か」の支配下にあったため、完全に自由な自らの意思で犯行をしたといえない。
だから無罪となる。

わかりやすくいうとこんな感じだ。

で、この「責任能力」が無い人って何かというと、具体的には重度の精神病、発達・知的障害、酩酊状態などがあげられる。

これって、健常者からしたら意味がわからないよな。ASDである私からしても意味がわからない。

老女を毒殺し、中学の同級生2名に重い障害を与えた、名古屋大学の女子学生は、「責任能力」を問われ無罪になる可能性がある。

発達障害があり、躁鬱病も患っているからだ。
犯行時に、病気や障害の支配下にあった可能性があるからだ。

病気や障害の支配下にあったなら、何をしても罪を問われないというのは、あまりにも意味がわからない。

殺された側からしたら、相手が病気だとか障害があるとか、酩酊しているとかそんなのは関係のないことだ。

とことん加害者に優しい法律ばかりで、嫌になる。

病気も障害も関係なく、起こした結果に対して罰を与えられるべきだ。

障害があれば罪に問われないというのは、社会的な差別も生むと思う。

起こした罪の責任が問われないような人間のそばに、誰が近寄りたいと思うのか。

「責任能力」を問うのは、一見障害者に優しいようで、最悪を極めた仕組みだ。


少年法なんていらない

本書に登場する犯罪者たちがこぞって言うのが、「未成年のうちに犯罪をすれば、罪が軽くなる」ということだ。

もともと、少年法がなんのためにあったのか。

少年法ができた当時は戦後であり、戦争によって孤児になったり、貧困になった子供たちが、その空腹から物を盗んだり、強盗したりするようになった。
そんな子供たちに、大人と同等の責任を負わせるべきではない、という目的から始まったようだ。

しかし今は戦後ではなく、少年法によって守られる子供たちの罪状は、主に傷害や暴行、性犯罪などだ。

戦後の混乱期には、確かに必要だったかもしれない。
しかし今の少年法は、非行少年たちの「やりたい放題」を保護するものでしかない。

未成年犯罪者たちは、自分たちが少年法に守られていることを自覚し、それを利用して犯罪に及んでいる。

そんな人間を守る必要があるか?「子供だから」でなんでも守られるべきか?

少年法廃止を強く願う。


人を殺した方が得になる構造

この本を読んで初めに思ったのが、「私も未成年のうちに人を殺しておけばよかったな」というものだった。

少年法だの、責任能力だの、そういうものに大事に大事に守られて、どんな加害行為も許される。
また、審判過程で発達障害検査などが行われ、早い段階で発達障害だとわかり、自らの社会復帰への支援者たちもついてくれる。

こんなの、憎い奴の1人や2人殺した方が、明らかに得ではないか?

発達障害者は、コミュニケーションに難がある以上、なんらかの対人的トラウマを抱えて、PTSDを引きずっている。

「自害タイプ」はそれがゆえに自殺したり、他人からさけずまれたりしているけど、それなら「他害タイプ」になって、トラウマの根本的原因になった人間を殺すほうが良いのではないか。

「自害タイプ」なら、大人になってから発達障害がわかったり、検査や支援者を探すのも全部自分で、自費でやらないといけない。
弱い存在とみなされているから、他人から見下されたりすることも多い。

でも「他害タイプ」なら、早い段階で支援者がつき、欲求を満たしたり、トラウマの原因に復讐したりできる。
他人から恐れられる、強い存在になれる。

明らかに「殺した方が得」な構造だ。

こんなのおかしいではないか?少年少女の倫理観に依存し、殺人が頻発していないだけで、現実としては殺すと得になる構造だ。

これに気がついてしまったからこそ、少年少女たちは凶悪な犯罪をするのではないか。

私も少女の時に気づいていたら、きっと人を殺していたと思う。

未成年凶悪犯罪を無くしたいなら、少年法も、責任能力も、更生教育も、全部考え直すべきだ。


おわり

「未成年なら、人を殺した方が得」という最悪の結論になってしまったので、どうにか仕組みを変えた方がいいと思う。

他人の倫理観に依存して、社会構造を維持するのは危険だ。

発達障害については、それが加害者だろうが被害者だろうが、なんらかの支援が早い段階で着く方がいい。
なぜなら、発達障害者は被害者にもなりやすいからだ。

この問題について真剣に考えてくれる、有識者が増えることを祈るばかりだ。

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