九州1

金海 伽耶

大邱(テグ)から清道(チョンド)に向かう道は、

山の懐に抱かれるように吸い込まれて行く。

同時に空気が澄んできて、冬の寒さを確認できる。


冬は冬らしく、寒くなければならない。

そうすれば初春の暖かさに、心を踊らせることができる。


今回の冬は、通算一週間程度の極寒以外は暖かかった。話によると東京では、2月の初めに桜が咲いてしまうほどだ。もう3月に入ろうとしている清道(チョンド)は、春を感じさせつつも、冬の冷たさも共存させる。

場所の力は、偉大である。

そして、そんな清道(チョンド)に立ち寄ってから、今度は金海(キメ)国際空港に向かう。日本からの来客を同僚と共に、見送るためである。


ここは、私の人生の中でいったい何回訪れた場所だろう。しかしこの場所は、日本からの行き来としてしか利用したことがない、まったくの通りすがりの場所だったのだ。
それも私の認識の中では韓国の第2の都市「釜山広域市」の中に、金海(キメ)という地名があるとばかり思っていた。またそれも、同時に金海市という存在を知っておきながらである。


結局、金海国際空港は釜山広域市の中にある固有名詞としての「金海(キメ)」であって、実は私は金海市には行ったことがなかったのであった。

人間は勝手な思い込みの中で、事実とは全く違うことを決めつけて認識し、それを自分は「知っている」と思い込み、何の問題も感じずに生きているようだ。
認識するという作業は、いつの間にか個々の錯覚を生み、その錯覚同士がコミュニケーションの中で同じ単語を使いつつ、まるで共有しているかのように、また大きな錯覚をつくっていく。


とにかく、まず何にでも謙虚に、できるだけ丁寧に「正確に知る=認識する」ということが、人生の中でとても重要である。

来客を空港に送り、ついに錯覚の金海市ではない本当の金海市に足を運ばせる。ここは釜山のすぐ横に存在しながら、釜山とは全く違う土地の空気を感じさせる。金海は、平地が広がる穏やかな農耕地帯のようだ。


6.25戦争時、洛東江防御線によって金海市と横の昌原(チャンウォン)市と馬山(マサン)市までは守られた土地である。当時釜山は、難民で膨れ上がった。きっと小高い丘の頂上まで、バラック小屋を建てながら生活したに違いない。


一方金海は、1981年に金海邑(むら)が市制施行し金海市となった。戦争当時、人が流れ込んでこなかったようだ。確かに釜山から金海に行くには、ちょっとした山を越え、氾濫しやすい洛東江(ナクトンガン)を超えなければならない。

韓国は土地ごとに、固有の色を持つ。すぐ隣に位置していたとしても、地理的にも歴史的にも、土地の持つイメージが全く違う。そんな韓国にいつも驚かされ、魅了させられる。


今回は遂に、古代の韓国に足を踏み入れた。


穏やかな平野は、きれいに区画整理されていた。
都市計画通りに、住みやすく造られたようだ。 

始めに、国立金海博物館に行く。
古代史を表す展示は、遺跡や遺物が中心になる。この手の博物館は今まで、たいへん退屈に感じたものだった。


ただ古い土器や埴輪や鉄くずなど、いつどこで発掘され、ここでこんな生活をしていたようだ、などなど。文献が少なかった分、出土される「物」を通して、学者といわれる人達が細かく分析し解釈したものを、私たちは学校という教育機関で一方的に暗記させられ、インプットさせられたからである。
これでは私をはじめ子どもたちが、歴史に興味を持てなくなっても無理がない。

しかし、今の私は違う。この国が持つ背景である歴史を通して、より出会いたいという主体的な意志が生まれ、歴史に対する姿勢が根本から変わったからである。


そんな自分の認識の変化によって、何一つ見てもその背景を感じ取り、それが習慣化され、生活自体、全て新鮮に感じるようになったのだ。

いつだったか、新聞でこんな記事を読んだことがある。
ハーバード大学のある教授の実験の結果、「自分が享有する空間が多ければ多いほど、自分の正体性が多様であればあるほど、幸福になりやすい構造と直結する」という。


古代史という未知なる時空間は、自由な発想を可能にさせる領域であり、また私に新たな正体性を付与し、幸せにさせてくれる。

特に最近、その自由な発想の根底に常にあるものは、国家や民族という境界線の概念に対する疑問である。


その疑問は同時に「もしも人類すべてがこの境界線の概念を超え、尊厳そのものの存在として、尊厳による関係性で交流し循環することができれば、子どもたちに残していくことになるこの地球の未来も、きっと明るくなるだろう。」という、透き通った希望と責任感を誘発する。

実はそんな境界線のない世界が、古代にはあったのだ。


今回この金海の博物館で驚いたことは、2階にある「鉄の王国 伽耶(カヤ)」だった。
そこでは「伽耶の成長基盤は鉄」だったとし、紀元前300年ぐらいから「鉄」を加工し、生産して、貿易をしていたということである。
「古代社会に鉄の生産と鉄製品の普及は、社会変化と発展の原動力」だったのだ。
何よりも「鉄鉱石から鉄を取り出す技術や多様な鉄製品を創る鋳造や鍛造の技術は、相当な水準」だったという。
そこに展示されていた窯に、私は釘付けにされてしまった。

紀元前にこんなものを造って、貿易までしていたとは。

「日本の製鉄の始まりについては様々な説があるが、6世紀、中国山地と丹後半島でのたたら製鉄が嚆矢(こうし)とされる。」
伽耶国では紀元前300年代、日本では500年以降に製鉄の技術が始まった。
あの時代、こんなにまでも技術の違いがあったとは。

PHP新書の「古代史の謎は『鉄』で解ける」の著者長野正孝氏は、こう述べている。
「私はこれまで約半世紀、港を造り、船を造り、マチににぎわいを作る仕事をしてきた。ゆえに、当時の船による交易がどのように歴史をつくってきたかに興味を持ち、研究を重ねている。本書では、当時最も重要視された鉄の交易に着目して、古代史の謎に挑んでみた。」

机上の空論ではない、現場主義における理系が解いた「歴史の再解釈」である。
これは、大変興味深い。
なぜならば、それは実際、私たちもこの著者と同じような考えを持っているからである。

アジアにおける大韓民国の地理的及び歴史的価値を再認識し、今の時代の人たちに、新しい教育を提供できることを証明したいと思い、日々教育観光の現場を発掘し案内しているからだ。

今まで私たちは、より良い大学進学や就職のために、古い観点で解釈付けられ固定された「歴史」を一方的に暗記し、生活の中で応用することもなくただ生きて来た。
しかしこれからの時代は、人間共通の尊厳による尊厳社会実現のために、新しい観点によって再解釈し続ける、「動き」そのものの「歴史」を創っていくことが、求められていると思うからである。

「鉄の道を追うことで、違った切り口で今までの疑問が解決できた。そこで見えてきたものは1~2世紀に起こったという『倭国大乱』による社会変革と日本の古代の活力ある国家像である。
東アジアの民族の大移動がきっかけで起こった玉突き現象によって、難民が大量発生し、難民と弥生人が起こした全国的な鉄をめぐる騒動が『倭国大乱』であった。」
著者は「倭国大乱」に、焦点を当てているようだ。
ではまず、著者のいう「倭国・倭人」とは何か。

「第一章、鉄を運ぶために生まれて来た海洋民族『倭人』」では、こう語っている。
「倭国は和国、すなわち日本だ、と思われがちだが実は定かではない。」と始まり、「考古学的に見ると、朝鮮半島の影響を強く受けた曽畑(そばた)式土器が、彼ら倭人の生活圏と一致していた。倭人は九州、西日本の島嶼(とうしょ)部、朝鮮半島西部海域から遼東半島付近まで活躍していた海洋民族だったのである。」
「私はこの倭人は、どうも同じ人種ではなく、日本海を渡る知恵と技能を身に着けた仲間たちで、海で助け合いをすることが宿命づけられることから生まれた海洋民族ではないかと考える。」とあり、
「したがって、5世紀ごろまで彼らに首都や王の都という概念はなかった。群雄割拠でそれを結ぶ交易路こそが「倭国」の実態だと考えられる。」

確かに当時、現在でいう国家・民族という境界線の概念は存在しない。

著者は「倭国」を「交易の利益によって結ばれていた都市連合」や「国ではなく、都市同盟、アライアンス」であって、「中世のハンザ同盟と同じような世界」であるとする。
また「40年前の名著『邪馬台国の常識』で松本清張は、漢も魏も倭人の国家の概念がわかっていなかった、したがって、倭国ではなく倭人としたのではないかと説明している。」とある。

実際釜山から金海に出る途中の地形には、山と川を超えなければならない。2000年前、山や大きな川を隔ててしまっては、同じ地域・国家と規定できるだろうか。 単純に隣のマチといった方が、わかりやすい。
そのマチ同士が、交易によって結ばれていた都市連合である「倭国」。
九州・西日本海域と、朝鮮半島西部海域から遼東半島付近まで、「海で助け合うことができる人種を超えた」海洋民族の「倭人」。
人種を超えた都市連合、美しい、ロマンである。

いったい国家・民族という境界線の概念は、いつの時代から生まれたのだろうか。
現在悲しいことに、国家民族闘争が絶えない時代になってしまった。
情報化社会におけるインターネットの普及は、世界を一つに結び、グローバル化された融合の時代を提唱している。
しかし人間の認識は、古代にはなかった国家・民族という境界線をつくり、その概念に固定・束縛され、排他的な自尊心と正体性を育ててしまっている。
この現代の歴史観の中心にある国家・民族という境界線の概念は、西洋から近代になってもたらされ、その西洋の観点に合わせて東洋が再構築された概念ではないだろうか。


これからの時代はそんな境界線の概念に束縛されるのではなく、各国の地域ごとが地方自治によって独立し、都市連合・都市同盟によって助け合い、人間の尊厳によって繋がり合う「動き」そのものの尊厳関係である都市同盟「尊厳シティー」形成こそが、西洋の個人主義、国家主義、民族主義を超えることができる、新しい社会形態になっていくだろう。

では次に、海洋民族とは何だろうか。

当時地球の海水面は、気候変動などによって数メートル高かったらしい。
「約6000年前の縄文前期、大気温は現在より高く、海面は数メートル上昇していて、海は関東の奥まで侵入していた。これが縄文海進である。」
それによって「1590年徳川家康が江戸に入った時は海面が下がり、海岸線は既に沖の方に後退していた。」とあり「当時の関東は平野ではなく湿地であった」のだ。
例えば、海面が5メートル高いと関東平野はこういう状態らしい。

衝撃だった。
地理や地形自体も、実は常に変化している「動き」そのものだった。

よって「古墳が少し高い土盛りになっているのは、水世界の中で絶えず発生する洪水から非難するためでもあった。」わけで、当時は「船でしか旅ができない」状態であり、「舟によって移動できるところに自然にマチはつくられた」のであった。

現在私たちは「道」というと、車などが走る陸路を思い浮かべるが、当時湿地帯である日本列島の道は、舟を利用する海路が「道」だったのだ。
実際江戸時代でも、日本列島は船のネットワークで結ばれていたという。
海洋民族にとって、きっと海が陸で、船が馬や牛車だったのだろう。
そして海のオアシスであるマチが、九州・西日本海域と、朝鮮半島西部海域から遼東半島付近にあり、そのマチが交易によって都市連合となって、海で助け合うことができる、人種を超えた海洋民族が、すなわち「倭国・倭人」だったようだ。

そしてもう一つ、金海の博物館には、私を惹きつけたものがあった。
それは、曲線が美しく、とてもかわいい「水鳥」の埴輪だった。

「その当時、伽耶は沼地でもなく水鳥が多い訳ではない。冬になると水鳥は日本に渡る、そのあたりがすごく気になった。遊牧民族がなぜ水鳥であろう。(略)鉄があるところに、この水鳥の土偶がある。」長野正孝氏が著書で、語っていた。

「多くの鎧には水鳥の紋章があり、日本海側、さらに百舌鳥古墳群にも水鳥の埴輪、土偶が数多く出土している。
水鳥こそが日本海、瀬戸内海の水を進む倭国水軍の紋章である!
騎馬民族の辰韓(しんかん)や高句麗にはない。伽耶王国、倭国そして応神天皇の紋章でもある。水鳥は、5世紀初頭、大和と伽耶、日本海の諸国が一致してことに臨んだ証拠である。」

なるほど、すべてが繋がる。
この水鳥は、鉄によって結ばれた伽耶と大和・日本海諸国の都市同盟を証明していた。


次に国立金海博物館を背後に送り、近くにある大成洞古墳博物館に向かう。
初春の週末の金海は家族連れが多く、町全体の空気も柔らかい。
楕円形のこの博物館は入り口が狭く、入るのに多少迷いを感じたが、その館内に入ると広く静かでゆったりとしていた。
まるで、古代に対する私のイメージと同じだ。

静かに一つ一つ、見て回る。
しかし丁寧に展示物を見て行くと、ここがどこなのかわからなくなる。

それは、そこにある遺物を通して復元した模型その他が、日本の縄文・弥生時代のものと、ほとんど同じだったからだ。

また、展示室最後のコーナーに、この遺跡が発見された当時の反響について、日本側の新聞も展示されていた。

一つは、「幻の金官伽耶王墓か。韓国金海市で発見の墳墓群。鉄・銅器が大量に出土。日韓の古代史解明に期待。」(朝日新聞1990年8月3日付け)で
もう一つは「よみがえった幻の王国。韓国金海市で金官伽耶の王陵発掘。副葬品千余点が出土。古代日韓交流立証に光。」(東京新聞1991年9月5日付け)だった。

少し朦朧としながら、外に出た。
すぐ隣に、約2000年前の古墳跡がある。

何も考えられず、そこに登ってみた。
そこには、親子が仲良く凧揚げをしていた。 2000年前の、古墳の丘の上で。

この古墳は一般開放され、市民の憩いの場となっている。
中でも野外「露出展示館」として、発掘現場も再現されているのは素晴らしい。
一方日本の有名な大仙陵古墳(前方後円墳)などは、宮内庁管轄で、発掘することも許されない。

当時のことを研究したければ、この金海に来ればいい。
この開放された韓国の歴史観には、常に感服させられる。

それでは何故、 朝鮮半島西部海域から遼東半島付近まで、海で助け合うことができる人種を超えた海洋民族であるその地域の倭人達が、沼地の日本列島に来ることになったのだろう。
いったい、「倭国大乱」とは何だろうか。

「東アジアの場合、歴代中国政権が朝鮮半島の東側や南の紛争の状況を捉えていないため、文献記録が不明瞭だ。」それが、大前提であろう。
しかし「一世紀の高句麗の東進、南下が起こり、玉突き状態で日本に多くの鉄を持った難民が押し寄せ、争いではなく「鉄の爆発」というべき社会変革が起きたと考えた。」
そして「弥生人は鉄器を持った渡来人の墳墓づくりに、鉄を手に入れる代わりに参画した。これが倭国大乱を生んだと私は考える。」
「大乱というほどの戦争状態ではなく、鉄の交易が生んだ日本社会の『突然変異』であったと考える。」
なるほど。

結局「倭国大乱」とは、高句麗の南下によって起きた「鉄の爆発」を伴う社会変革だと見ていた。
 
「突然5世紀ごろに日本全国同時に、鉄を大量に副葬品にする古墳が増えている。古墳という市場で鉄の取引が数多く行われ(略)、結果としては日本海を挟んで離れていた鉄の精錬所を集約したことで、却って工業力を高めることができた。(略)
朝鮮半島の繁栄の拠点であった伽耶そのものが、大阪湾に移転したのだ。」

なんと、一世紀に伽耶国そのものが、大阪湾に移転した。
そう、「朝鮮半島は戦いの連続の歴史で、常に多くの人々が逃げてきた。」のだ。

倭人という渡来人たちは、紀元前から始まり応神天皇期には、最初の大規模な移転があった。この後続く渡来人たちによって、政治にも影響を与えるような知識や文化・技術がもたらされた。
そして7世紀には、白村江の戦いで敗れた百済からの亡命者たちもやって来た。

「鉄戦争に倭国は負けたが、(略)半島の大量の工人が日本に帰化、日本の発展に寄与」することになり、「半島の工人の多くは大阪平野に移住し、ヤマトの国づくりに貢献」したのだ。

まさに朝鮮半島、特に伽耶や後の百済地域などの、優秀な人材である倭人(渡来人)によって、島国日本が生命を得た。
これは、7世紀までの半島と島との交流と循環による愛が、しっかりと基盤になったからだといえよう。


国家・民族という境界線の概念では決して到達できない、 互いの交流を支えた、海の道や鉄の道があったからこそ可能だった。
何よりも交流と循環、相互発展と信頼を成熟させることができる共通の「生き方モデル」、まさに新しい関係性を中心とした未来志向型の「連合モデル」が、そこにはあったから可能だったのだ。

今こそ私たちは、境界線のない認識の世界を選択し、新しい交流と循環を活性化させる「新しい路」を構築していこう。
そしてお互いが理解し合い、支え合い、育てあい、愛しあう「尊厳関係」における「都市連合、都市同盟、アライアンス」の希望溢れる「尊厳シティー」を、これからの時代に必要な集団知性体の「普遍的な関係性」として、次世代に提唱していこう。

こうして生命である交流と循環、動きと変化を取り入れて韓国の「歴史」に触れた時、人類歴史の全てが「愛」であったことを知った。
その事実は、私を純粋に深く感動させてくれた。

そして、そんな歴史と地理を持つこの国こそが、実は「愛」そのものなのではないだろうか。
何よりもこの国は私に、「人類歴史の全世界の縮図」を見せくれたのだ。
今ではこの地は荘厳なる「人類歴史と全世界」へと、私を常に案内してくれる。
よってこの国は、人類に新しい方向性とビジョンを提示することができる、全世界の交流と循環の愛の国なのではないだろうか。

まさしくこの、交流と循環の愛の国こそが、人類が行くべき未来の設計図を全世界に提示できるに違いない。

日本はもちろん、アジアをはじめとする全世界の人々が、この韓国に訪れて、この時代に必要な新しい方向性とビジョンに触れていくことによって・・
人類の未来文明であるネクスト・ルネッサンスは、この歴史とこの土地の痛みを持つ愛の国こそが、世界を牽引していくことを確認できるに違いない。

時代は、繰り返す。

西洋中心の時代から、東洋中心の時代に歴史は転換してきている。

アジアの日の出は、遂に目の前に迫っている。

       

                                                       完

                      2016年3月20日 nurico


≪参考文献≫

「古代史の謎は『鉄』で解ける」長野正孝著
「日本史の謎は地形で解ける」竹村公太郎著

ここから先は

0字

¥ 100

拙い文章を読んで頂いて、ありがとうございました。 できればいつか、各国・各地域の地理を中心とした歴史をわかりやすく「絵本」に表現したい!と思ってます。皆さんのご支援は、絵本のステキな1ページとなるでしょう。ありがとうございます♡