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腐ったさよならの土地で生きよ

はじめに

僕らは今回『ロビンソン・クルーソー』ものとして『蝿の王』を選んだ。

『蝿の王』(以下「蠅」とも)はウィリアム・ゴールディングによって1954年に書かれた。『ロビンソン・クルーソー』が1719年だから235年の時間の開きがある。235年。人間で言えば当時の感覚から考えて4世代ぐらいだろうか。隔世の感がそこかしこに見える。
まずクルーソーでは一人で無人島に行き着くが、蝿では何人もの少年たちが同時に行き着く。少年たちが船だけでなく飛行機を含めて経済的に渡航可能となった。無人島生活は社会化された。ルールが求められ、議論が絶えない。無人島はあいかわらず謎の多い場所だが、火おこしは眼鏡で行うようになった。物であふれ清潔な無人島に行き着く前の社会。その発展が垣間見える。
そもそもクルーソーとフライデーでは議論にならないのだ。階級社会は自由な議論を阻害する。フライデーはクルーソーと出会った当初英語が喋れない。野蛮人とは話にならない。
こんなことを書くと急に昨今の日本の状況について、ほんの少し書きたくなった。ルフィを名乗る頭(かしら)をすえた強盗集団がはびこっているとの報道。野蛮人とは話にならない。日本の正義はどこへ向かうのか。

気色の悪い『蠅の王』

無人島というモチーフは社会が消滅した世界でいかに生きるかを問う。国家もない。家族もいない。そのような状況で人はどのようにサバイブするのかを問う。まじめに書けばこのような疑問が根底にはあると書けるが、それ以上に少年少女たちに向けた冒険ロマンものの側面も捨て難い。
上で社会の発展が垣間見えると書いたが、とはいえ無人島に行き着いてしまえばそれまで暮らしてきた社会が霞んで見えるのだろう。特に歴史は忘れ去られる。子供たちが主人公だからか、特に蠅では歴史が持ち出されない。誰もが不安で根無草。今まで生きてきたことの意味も忘れ去られ、とにかく現状で困難なことに対処し続ける。
獣を殺すことへの抵抗感と戦争との間接的関係はないか?クルーソーではあんなにも躊躇なく殺しが横行していたのに。
そう。『蝿の王』の気色の悪さはむしろ差別や殺しの少なさだ。あまりにも清潔だからこそ残酷さが際立つ。生きることが自明になってしまった戦後という時代。人権という錦旗が明るくはためく現代において集団暴動は過激すぎたか。

型=リトマス試験紙的思考と蠅の王

何かが足りない。そう思った私はどうしても『蠅の王』の違和感に耐えられなくて、私は別の本を読み始めた。以前読んだ『敗戦後論』(以下全て文庫版)、特に「戦後後論」を読み返した。
何が『蠅の王』の読解に役立つというのか?例えば吉本隆明の引用。「高度に技術化された社会に加速されたところでは『人間性』や『人間』の概念は『型』そのものに近づいてゆく」(p.129)。著者の加藤典洋は日本共産党の文学に関する議論からその「政治と文学」という枠組をつくり、そこに太宰治を据える。「型」に凝り固まった何物かを批判し続ける存在としての文学。限定されたものを土台にして、そこから無謀にも無限へと手を伸ばそうとする文学。
そもそも「社会」という言葉で言い表される人間集団そのものが紋切りなくして存在し得ないのだから、その社会というリトマス試験紙的存在に抵抗し続けるのが文学ということになる。社会は文学を取り込もうと必死だが、そこから逃れ続けるのが文学なのであるからして、だったら社会の方は文学を取り込むのをやめたらどうか。文学に潜む残虐な神聖性を飲み込もうと奮起するのを社会はやめたらどうか。飲み込もうとして永遠に飲み込めないその有様自体すら次第にそれが正しいのか、正しくないのかを切り分けるリトマス試験紙になっていった。飲み込むことで社会は残虐さを乗り越えるのだと、その正しさを証明しようとするのだが、結局できない。なぜなら人と人のつながりですら有限であり、文学が手を伸ばそうとする位置に届きはしないからだ。「正しい」リトマス試験紙的社会にはそもそも遊びがない。あるのは功利主義と一抹の親切心だけだ。『蠅の王』の子どもたちはそれを次第に理解したのだろうか。遊びはなくなっていって奇妙な不安だけがそれぞれを襲った。
いや理解などしていない。彼らは何かに飲み込まれたのだ。雰囲気や思い込み、自分達自身の鏡である蝿の王に乗せられてしまった。誤りうる存在である蝿の王。
おそらく竹田の議論を引くために現象学を持ち出している『敗戦後論』のpp.189-194で、加藤は超越と内在というキーワードを挙げ、超越は内在の上に立って疑い、あれは内在か否かと物事を問い、超越自身の土台たる内在を「選り出」すという。その選び出す有様が文学だという。内在たる蝿の王。その残虐性の上に立つことでしか、実のある有意義な人間の正当性は実体化しない。蠅で起こったのは蝿の王=不安が社会を飲み込むことでリトマス試験紙化し、「型」に凝り固まって野蛮となった。子供たちに知恵はなく、言い争いと戦闘への熱狂が残った。

単純に落ち着いた環境で考え続けること

蝿で物語られる子供たちには何が足りなかったのか?
それは一つに、物語でもアイデアとして出てくる紅茶だろう。大人は紅茶を飲みながら会議することでうまく物事を取り仕切ることができる。
紅茶によって考えること、行動することを一時中断してリラックスの時間を取っている。そうすることでより柔軟な発想が生まれる。別のより良いあり方を模索できる。必要なのは発言権を示すほら貝ではなく、休憩を示す紅茶だったはずだ。
しかし「紅茶さえあれば」という思考はまたもやリトマス試験紙的思考へと導く。ここで重要なのは紅茶やそれによる休憩が何を意味するかを考えてゆくことだ。
休憩とはつまり理性=自分の内的自然への抑圧を一時停止するということだ。それは自分の残虐性を解放するということではない。残虐性はあくまでも内的自然の一部であるはずだ。自分たちの寄って立つところだ。踏み台だ。獣に対抗するために蝿の王を重用するのではなく、蝿の王を踏みつけにして新たなあり方を考える必要がある。踏みつけにするから休憩できる。残虐性を一旦保留にすることで休みを得ることができる。
残虐性を踏みつけにするとは?残虐性を無視するということではないだろう。抑圧しても後から出てくるだけだ。うまく乗らなければならない。例えるならば象の上に立つようなものだ。残虐性が力強く立つ、その上にタイミング良く乗る。ライドする。きちんと観察していなければ良いタイミングは図れない。
このようなことができれば、『蠅の王』のラストのような、圧倒的な力の差を見せつけられて今まで自分たちがやってきたことが全くの無意味であったかのような乾いた笑いを発せずとも暮らせるようになるだろう。

おわりに

敗戦国たる日本において『蠅の王』を読み込むことは重要なことだ。
まさに子供の間で戦が起こり、さらに救助という圧倒的な大人の世界を前に即座に子供らが屈服する。混乱する少年たちは「嗚咽に体を震わせ」(新装版文庫本『蠅の王』p.354)る。その後で起こるのは乾いた笑いであり、子どもたちが帰国してもそのままで放置してしまえば考える力が次第に衰えていくだろう。現代敗戦国日本の原点の写し絵として『蠅の王』は機能している。


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