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【キャリア】会社のエースだと思っていたら突然リストラされた話

皆さん、お疲れ様です。

普通のサラリーマン代表、彼方ロキと申します。
今日は私が今のキャリアを築くに至るまでのターニングポイントの一つとなった、前職のリストラについて書きたいと思います。

皆さん、リストラされたことありますか?

おそらくほとんどの方は「No」だと思います。
日本の会社はほとんどの場合、余程の事情がなければ社員を一方的にクビにすることはできないので。私はあります。

この記事が何かの役に立つかわかりませんが、
気軽に読み物として読んでもらえるだけでも良いかなと思います。

それではどうぞ。

◆リストラに至るまで

◇天狗になっていたリストラ前

まず、当時の私について、
最低限描いておかないといけないと思います。

私は当時29歳で、学部卒で入社したメーカー系システム開発ベンダをだいたい丸3年経験した後、転職してユーザー系システム会社に所属していました。

新卒で入社した1社目は大手メーカーのグループ会社でしたので、
今思えばホワイト企業と言ってよい環境だったと思います。
それなりに忙しいですが、福利厚生がしっかりしていて、
年功序列の安定志向、教育熱心でもあり、
失敗してもちゃんと守ってもらえる。

地に足つけて長く働くには適した環境を提供してくれていました。

当時同期だった私の妻は、
今でもその会社に所属して家事育児をしながら時短勤務しています。

しかし当時の私は今よりも若く、向上心にあふれていましたので。
「年功序列なんてクソくらえ」
「給料を上げてくれ、早くリーダーをやらせてくれ」
「そうしないとやめちゃうよ」
という強気な姿勢で働いました。

当時の課長に
「あまり急ぎすぎるな、あと〇年待てばお前なら活躍できる」
と宥められても内心は全く聞く耳持たずで、
3年待たず2年11か月で辞めてしまいました。

転職した2社目の会社が、
まさに私が数年後にリストラを経験する会社
になるわけですが、
入社当時はそんなことになるとは露ほども思っておりませんでした。

1社目の社風からガラッと変わって実力主義。
20代でもリーダーや顧客対応をバリバリとこなす社員たちをみて、
「自分がいるべきはここだったんだ!」と確信に満ち溢れていました。

私が転職したのが25歳の時でしたが、 3年経過して28歳になるころには、
5年上の先輩程度であれば軒並み追い抜き、
給料も若手ではトップクラスになっていました。
参考までに年収がどれくらい変わったのかで言うと、

  • 1社目 転職直前(経験3年):年収380万

  • 2社目 転職直後(同上)  :年収400万 ※転職で微増

  • 2社目 3年所属(経験6年):年収800万強

年収800万の内訳にはかなりの割合で時間外勤務手当が入っています。
基本給が27~28万に対して、時間外手当を含めると月給が税引前で80万を超えている月もありました。

時間外がつくことというモチベーションがあったので、
土日も関係なく働いていましたし、稼いだお金を使う暇もないので、
後輩や下請けの開発者の方を沢山呼んだ飲み会で全員分奢るのを繰り返したり今思うと完全に馬鹿げていますが、
定期を買っているのに毎日タクシーで家に帰ったりしていました。

諸先輩方からも絶対に嫌われないように立ち回り、
優秀だ、優秀だと褒められ、正直有頂天になっていた時期だと思います。

この時の自分は日本のバブル経済期のごとく、自分の"株価"はこれから永遠に上がっていくと信じ切っていたように思います。

◇会社はどういう状態だったのか

当時の会社は、売上の60%が「流通系」、30%が「WEB系」、残りの10%が私の所属していた事業部の収益(※ここは伏せさせてください)という割合になっていて、私は社内ではニッチな事業を手掛けておりました。

しかも、全社2事業は安定的な黒字を出しているにも関わらず、
私のいた事業部は10年間ずっと赤字であり、
売上規模の大きい事業部に助けられてなんとか存続していた状況でした。

私は当時は管理職手前までしか経験をしていませんので、
そこで苦しい思いをしたことはありませんでしたが、
当時の上司たちへの風当りは相当強かったはずです。

私は、このような万年赤字の事業を黒字転換するために、従来のサービス内容を全面刷新するプロジェクトに所属していました。
そもそも転職してきたきっかけとなったのはこのプロジェクトが面白そうだからでした。

但し、サービス内容の刷新は困難を極め、
開発とリリースまでの期間は当初計画の1年半から複数回のリスケを経て、最終的に4年近くまで延伸しました。

私はその間、先ほど言ったように頭角を現してきており、
天狗になっていったわけですが、
事業そのものは徐々に窮地に追いやられていたわけです。

◇穏健派社長が退任。事態が一変。

10年も赤字の不採算事業であれば、撤退するか売却するのが普通の考えです。
私の事業部がそうならなかったのは、
当時のトップがその事業に対する期待を捨てていなかったことです。
ニッチな事業でしたから競合が少なく、刷新が成功すれば業界のシェアを大きく獲得する可能性がありました。夢のある事業だったということです。
(具体的な事業内容を伏せているので説明しづらいですが…。)

部課長は「来年こそは」と毎年社長に言い続け、結果的にずるずると回復できず、そのたび社長が他事業部を宥めながらここまで来ていたわけです。

そんな甘やかされた状況も長くは続きませんでした。
ある時、会社経営を見直すためのコンサルが入ったと思うと、あれよあれよという間に不採算事業の売却が決まり、その後事業部を守ってくれていた穏健派の社長も"革新派"の社長に代わることになりました。

◇リストラを宣告された当日の話

私(たち)は事業部全員が社内アナウンスで突然ホールのあるイベント会場のようなところに呼び出されます。
「重要事項」「全員参加必須」とだけ伝えられ、内容については会場に到着してから説明する、ということでした。

あー、ついに首切られるのかー。と誰かが冗談で言いましたが、
本気でその心配をしていた人は誰一人いなかったと思います。
私もそうですが、守られることに慣れすぎていました。

会場についてから説明された内容は以下の通り。

  • 不採算事業を所属社員全員付きで他社に売却する。

  • 売却時に当該事業は「新設会社」となり、売却先会社を親会社とした子会社となる。

  • 所属社員は元会社に残ることはできないが、自主退職することはできる。

  • 売却後も残る場合、売却先にて2年間は現在と同等の待遇を保証する。


私が一番衝撃を受けたのは、私を含む社員全員に通達されるのと同時に会社のホームページで株主向けには決定事項が発信済だった、ということでした。
当然、先に社員に通達してしまうと、売却先との契約日までに社員がどんどん抜けてしまい、事業売却自体が成り立たなくなってしまうためだと思いますので、会社側としてはそうするしかなかったのでしょう。

待遇は期間限定で保証するとありますが、
私はブランドやネームバリューといった権威の部分も含めて、
売却元の会社を気に入っていたので、
聞いたこともない親会社の元に移ることなど考えられなかったのです。
屈辱さえ感じました。


しかしこの時は、「まだどうとでもなる」と思っていた部分もありました。

私は会社の中では事業部に閉じずに、他事業部に開発のアドバイスや支援に出向いたり、社内の開発者育成タスクフォースに所属したりと、多少は名前が売れてきていたので、
「自分はスキルがあるんだから、他の社員とは違う。
他事業部の偉い人に相談すれば、こっそり異動させてくれるはず」
と信じ込んでいました。

今思うと馬鹿だなと思ってしまいますが、
事業は人ですから、契約上も「事業=ノウハウを持った社員」を売却しているに他ならないわけです。
私がいろいろな悪あがきを考案している遥か以前に、売却先には
〇月〇日時点で所属している社員のリストが既にわたっているわけで、
私だけがそこから抜け駆けなどできるはずがなかったのです。

そんなことも露知らず、私は当時一番尊敬していた課長に以下のようなメールを送りました。

●●課長
お疲れ様です。彼方です。
先日突然言い渡された事業売却の件ですが、他事業部への異動はできないのでしょうか。
流通事業部の〇〇さんは以前から、うちに来ないかと誘ってくれていました。他に、××さんからも…。
私は今の事業部以外でもスキルは十分生かせると思うので出来れば新会社への移籍ではなく、異動したいのですが、誰に相談すべきでしょうか。

彼方のメールを再現

完全に当時のメール文面を再現することはできないですが、絶妙に空気や状況が読めていない感じが出ていたと思います。何故自分だけが抜け道があると思っているのか。課長からの返信はこうでした。

知るわけないだろう。
俺だって まず、自分の身の振りを考えなきゃいけないんだから。

課長

この時、初めて自分ではどうしようもない状況に追い込まれたことに気づいたのでした。

◆リストラが決まってから

◇事業部やプロジェクトがカオス

新会社設立からそれが実際に施行されるまでには半年間の移行期間がありました。その間、私たちは今までと同じように事業部を運営しなければならないし、前述の刷新プロジェクトも放り投げるわけには行きませんでした。

事業部の社員の中には早々に転職活動する人もいれば、早期引退をきめるひともいれば、とにかく続々と退職者が出ました。会社側もそれを止める権利はありませんので、ある程度の人材の流出は織り込み済みだったかもしれません。

もっと酷かったのは長年会社に依存していて、年齢的にもスキル的にも他の会社で生きていくことが不可能な人間や、状況的にやめることが許されなかった管理職、リーダー層たちでした。
当時私もリーダー層の一人でしたのでそれなりに自分が抜けることの影響や意味については理解していたつもりです。
「彼方さんが抜けたら、我々もお付き合いをする意味がなくなるなるので取引もやめると思う」という下請け業者の会社もいくつか出てきました。

そこからこれまで自身が手掛けてきたサービス内容刷新のプロジェクトだけは完遂して、義理を果たしたら抜けようと決意するわけですが、自分たちは捨てられたのだという暗い雰囲気のなか、いつ辞めるかわからない上司や部下たちとプロジェクトを完遂しなければならない、というのはどんなプロジェクトよりも困難に思えました。
残業も原則禁止になり、ピークで800万円を超えていた年収が最終的に600万まで下がっていました。

2016年某日 システムの初期構築とテスト、ファーストユーザーの稼働まで見届けてから、私は会社を去ることにしました。31歳の時でした。

このタイミングで私は「システムエンジニア」から「ITコンサルタント」にジョブチェンジをすることになりますが、コンサルタントになってからの話はまた別の機会に。

◇おわりに

会社がとるリストラには幾つか方法があると思います。当然解雇だけがリストラではない。
私は最初のリストラ(解雇)と記載した箇所がありますが、厳密にいえばこれは解雇ではないですね。ただ、私含めリストラを受けた社員側の気持ちからすると実質的には「自分たちは切られたんだ」という思いが強かったのを覚えています。

今回のやり方というのは、会社法的には「新設分割」という扱いで、会社の一部を分割して、分割した事業部分を新会社として興したということ。
それと同時に新会社(事業)を他社に売却する、ということを同時に行ったわけですね。

当時はかなり乱暴な手口のように思えたものですが、今思えば悪質でもない普通のことです。
前述の通り、我々の給与や賞与といった待遇は新会社になった後も2年間は保証されるという条件がありましたし、そこで考えるための猶予期間が得られました。
昨今、もっと乱暴なやり方で大量解雇に踏み切る米国大企業等も見ていると、当時の会社のやり方というのは最大限、社員に配慮した形だったのだなと思います。

いかがだったでしょうか。
最後まで読んでくださった方がいるか分かりませんが、
また折を見てほかのキャリアについても記事を書きたいと思います。
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