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空き地を巡る考察

自宅から30mほどの所に、空き地がある。

最寄りのコンビニに行く途中、最初に出くわす十字路の角にそれはある。月に2~3回のペースでそのコンビニを利用するので、往復を考えると毎月4~6回はその空き地の脇を通っていることになる。

テレビを観るときにリモコンを押さなければいけないのと同じように、「コンビニに行く」という目的を遂行するためには、この「空き地を通り過ぎる」ことを避けては通れないのだ。

ここで1つ断っておくと、記事のトップ画像は他の方が撮影した全く別の空き地であり、僕の家の近くの空き地とは異なる。写真を撮って現物をお見せしようと思ったが、自宅の住所がばれる危険性を鑑みて、今回は止めておいた。

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空き地は、よく見ると綺麗な長方形をしている。目算では、長い辺が20メートル、短い方が8メートルくらいだから、広さとしては160平方メートルはあることになるだろうか。ドラえもんによく登場する3つの土管の置かれた空き地。あそこでは子どもたちが自由闊達に遊んでいるが、ここはそこまでの広さはないし、事実、これまでに遊んでいる子どもを見かけたことはない。

長方形の土地の4つの辺のうち、垂直に交わる2辺が道路に面している。その片方、長い方の辺には高さ80センチほどのコンクリート製の塀が立つ。ただ、端から端まで伸びているわけではなく、端から全体の3分の1程度の長さで途切れている。

このあたりは住宅が立ち並ぶエリア。Googleマップの航空写真モードで上空から見下ろすと、箱詰めされた高級寿司のようにきっちりと家やらアパートやらが密集していることが分かる。その中で一ヵ所、緑の面積が広い場所こそが例の空き地だ。雑草の緑が目立つこの一画は、お寿司のバランみたいに周りとは独立した存在感を放っている。

ところで、空き地は昔から空き地だったのだろうか。

ここら近辺が住宅地であること、土地がそこそこ広いこと、中途半端な長さの塀(壁)があること。この3つの要素から推測するに、この場所にも昔は民家があったではなかろうか。

広さは160平方メートルは(きっと)あるから、家1つは余裕で建てられる。塀が長方形の辺の全面を覆っていないのは、途切れた塀の横には家の玄関に繋がる小道が敷かれていたからだと考えると、塀の中途半端な長さに説明がつく。

もともとはここには誰かが住む家があって、塀のどこかには表札があって、夜には窓から明かりが漏れて、朝には玄関から住人が出てきて……。大きくなった子どもたちはやがて家を出てしまい、家主夫婦だけが残った。その夫婦もやがて亡くなり、誰も住んでいない家だけが残された。離散している子どもたちは話し合いの末に、我が家の解体を決意。更地にし、土地の所有権も手放したのだった……。

実際、家があったかどうかは知る由もない。僕が勝手に構想した筋書き通りのストーリーが展開された可能性は、高いとも低いとも言えない。空き地に「残っている」僅かな手がかりから「今はもう残っていない」ものの存在を考察したに過ぎないからだ。

現実世界に「実体として存在するもの」だけを重視する立場からしたら、目に見えないものの存在や今ここにないものに思考を巡らすのは、時間の無駄だと思うかもしれない。

確かに、私たちはないものばかりに目を向けては生きてはいけない。身の周りには人やものが「実体として存在する」わけで、この世に生を受けた以上、実体と関わらないことは不可能だからだ。

でも、現存するもの以外にも目を向ける行為は大切だと、僕は思う。

その理由の一つは、今はもの「ここにはない」ものが、今「ここにあるもの」に影響を与えているからだ。あるものが現存する理由は、その昔に遡ってみることで見えてきたりする。過去だけではなく、将来誕生する(起こる)かもしれない「今はないもの」を考えることも、今の延長線上に未来があると捉えるならば、意義のあることなのかもしれない。

理由らしい理由はまとめられなかったが、まあ良いことにしよう。実際、自由にあれこれ考えるのは、純粋に面白いし、面白いというだけで「ないものの思考」には価値があると思う。

時空を自由自在に行き来しながら、ある事ない事を考えられる私たちの脳は、ドラえもんの「タイムマシン」に匹敵するほどのパワーを持っていると言えるかもしれない。

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