雨の日の物語-後編-【小説】
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一か月半前のあの日は、運動会の翌々日だった。
朝6時半。全身の筋肉痛に耐えながらやっとの思いで起きると、勉強机の上に見たことのない封筒を見つけた。手に取って、さっき付けたばかりの部屋の明かりに透かしてみる。中の影の正体を解き明かすべく封を切ると、手紙が二枚現れた。書き出しには「航へ」とある。
一度読み終えたあと、もう一度冒頭に戻って読み返してみた。手書きで丁寧に書かれた字を眺めれば眺めるほど実感が湧いてきて、近くにいたはずの母さんが徐々に遠ざかっていく感じがした。
それと同時に、心の奥底から何か熱いものが沸き上がるのを、確かに感じた。その気持ちに身を任せ、手紙を右手に握りしめたまま、部屋を飛び出す。外で降る雨音をかき消すくらいの大音量で階段を下り、父さんのいるリビングに一直線に向かった。
リビングに入ると、父さんは新聞を読んでいるところだった。「ねえ」と背中に呼びかけると、大きな背中がピクっと動いて、気だるそうに俺の方に体を向けた。そのタイミングで俺は、獲物を待ち構えていた猟師が銃を放つごとく、こう言い放った。
「母さんが出て行ったのは、父さんのせいだよ」
部屋の空気が変わった。変わるのが分かった。父さんはあっけにとられたような顔をしている。それを見ていると無性に腹が立って、栓を開けた瞬間に飛び出すラムネのように、次から次に言葉が湧きあがってきた。
「父さんがいっつも帰り遅くて、母さんに冷たい態度とって、自分勝手だからこうなったんだよ。わかってんのかよ?」
窓を叩きつける雨音が一段と大きくなった。父さんは、俺のことを真っ直ぐ見つめたまま押し黙っている。その目に、いつもの冷たさは微塵も感じられなかった。やがて、視線は俺の目から右手、右手から床へと移った。父さんは床を見つめたまま、一言「ごめん」と言った。蚊の鳴くような細い声が、雨音も相まって随分か細く耳に届いた。父さんの言葉に、思いがけず「人の心」が見えたようで、それ以上の罵詈雑言を浴びせることははばかられた。
雨の日は父さんに学校まで送ってもらっていたけれど、この日からは歩いて通うことを心に決めた。
・・・
母さんは、電話から30分もかからずに家にやってきた。外は雨が降っているらしく、無地の服がかわいらしい水玉模様になっている。
さっそく支度をして向かった病院は、予想以上に混雑していて、家に戻って来た頃には、正午をとうに過ぎていた。
ソファーに横になってうとうとしていると、キッチンから
「ワタル、ご飯できたよ」
と、母さんの声がした。「はーい」と答えながらソファーから起き上がり、席に着いた。そういえば、朝から何も食べていない。
運ばれてきたのは、漆塗りのお椀に盛り付けられた卵粥と麦茶の入ったコップ。
「いただきます」
まずは麦茶で喉を潤すと、「熱いから気をつけてね」の優しい言葉をかき消す勢いで、ガチャガチャと鳴らしたスプーンを口に運んだ。ほどよい塩気とほのかな甘さが口の中にさざ波のように広がって、美味い。本当に美味い。
最近は「アイツ」の舌になっていたところだからだろうか、余計に美味しく感じられる。今日の給食が大好物のカレーだということなんかすっかり忘れて、無我夢中でほおばった。給食のあの賑やかさはなかったが、身体も心もこころも温まる一時だった。
もう少しで食べ終えようかというところで、母さんは、
「航、そろそろ行くね。幼稚園に子供迎えに行く時間だから。何かあったら、また連絡してね」
と言って、いそいそと帰り支度を始めた。そうだ、母さんはもう俺だけの母さんではないんだ。急に襲ってきた寒気に身震いしながら、冷め始めたおかゆを機械的に口に運ぶ。
俺が完全に食べきったタイミングで、
「じゃあ、またね」
と言って、母さんは玄関に向かった。玄関の扉が開くと、日光が差し込んだ。いつの間にか、さっきまでの雨が止んだらしい。母さんは振り返って、
「またね」
と言った。
さっきよりも大きく開いた玄関から、光が差し込む。それに切り取られた母さんの影。ドアの開く音。
それに続くドアの閉まる音が、やけに長く俺の耳には残った。
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