ちょっと褒められて有頂天になった大学生が、気付けばNintendo Switchでインディーズゲームを作っていた話
以下の記事に触発されて、自分のゲームクリエイターとしての原体験を書いていこうと思う。
創作とは無縁の幼少期
創作やプログラミングの原点という話になると、幼少期の体験が挙がることが少なくないが、僕にはそういうのが一切なく(少なくとも記憶には)、羨ましくすら感じる。
とは言え、人並み以上にゲームは遊んでいて、FF、DQ、LAL、バハムートラグーン、クロノトリガー&クロス、聖剣伝説、ロマサガ、サガフロ、MOTHER、スーパーマリオRPG、ヒーロー戦記、幻水、アークザラッド、ポポロクロイス物語、Moon、デジモンワールド、リンダキューブ、グランディア、ワイルドアームズ、ゼノギアス、火星物語、レガイア伝説、等などRPGだけでも数えきれないほどの名作に触れていた。
でも不思議と自分で作ろうと思った事はない。
おそらく、大人の言う
「ゲームが好きだからってゲームを作る仕事が出来るわけじゃない」
みたいな事を真に受けて、自分がゲームを作るという発想に至らなかったのだ。
もちろんゲームを遊ぶのが好きというのと、ゲームを作るのが好きというのは違うが、そもそも仕事にする必要はないし、なにより先ほど挙げた大作や名作だけがゲームではない、という事に当時の僕は気付く術がなかった。
つまり、僕はこう思っていたわけだ。
「こんな凄いものを僕が作れるわけがない」と。
有頂天大学生
そんな僕は一関高専という高校+短大の5年間通う特殊な学校に進学。
さらに長岡技大という学生の8割弱が高専からの編入というより特殊な大学へと進学。
さらにさらに入った学科が、経営情報システム工学課程という所で、編入前の学生の学科が電気、機械、化学、経営など全く違うものを学んできた学生が集まるという、特殊過ぎる環境に進んでいった。
そして、この特殊な場所で転機、つまりはゲームクリエイターとしての原体験があった。
その原体験とは、とあるプログラミングの講義での事なのだが、なんとこの講義「ゲームを作りながらプログラミング(Java)を覚えよう」という内容な上に、最終課題が「何でも良いから好きなゲームを作って提出」なんていう、プログラミングの講義としては変わったものだった。
情報系以外から来た人も多いため、プログラミングを全くやったことがない学生もおり、必然的にプログラミングの講義も1からやる事に。
しかし、僕は高専の時点でプログラミングの授業を受けていて、講義でやる内容は知ってる事ばかりだったため、「講義聞かなくてもいいから、先に最終課題のゲーム作って楽しよう」と、講義中にサッとミニゲームを作ってしまった。
内容は「四方八方から飛んでくる障害物をジャンプと横移動で避ける」というもの。
完成したからには同級生に見せるわけだが、するとどうだろう、めちゃめちゃ反応が良い。ニュアンス的にはゲームが面白いというより、「こんな早く作るの凄い」「プログラミング出来て凄い」という感じが多かった気がするが、これがとにかく嬉しかった。
もしこれが情報系出身の学生ばかりだったら、こうはいかないはずだ。
実際高専の頃から成績は良かった方で、そこを凄いと言われる事はあったが、プロコン(プログラミングコンテスト)で活躍するようなガチでプログラミングが出来る同級生がいたので、プログラミングが出来ると言われた事はなかった。
ちょっと褒められて嬉しくなったら次に考える事はもちろん、
「もっと凄いものを作ろう」
次に作ったのはロックマンのボス戦オンリーみたいなもの。
しかもボスは1体でなく連戦形式で何体も追加。
難易度はむちゃくちゃだった気がするが、ボスを追加する度に同級生が必死でクリアし、それを見て違う同級生が負けじとプレイする。それを見るうちにどんどんゲーム開発にのめり込んでいく。
こうなってくると当初の「楽をしよう」という目的は完全に忘れ、寮に帰ってからも自室に籠もって開発をするようになった。
そして最終的に提出したのはロックマンの横スクロール+ボス戦みたいなもの。
BGMやSEもしっかり付け、爆発等のエフェクトやボス戦への切り替え演出等、こだわれるだけこだわり、ボス戦も前のを使い回すつもりが新規で作り直すという謎の徹底ぶり。
これだけやってしまうと同級生でだけでなく、講義をやってる先生も
「毎年この講義やってるけど、ここまでやる学生はなかなかいない」
みたいな感じで凄い褒めてくれた。完全に有頂天、有頂天大学生。
そして、僕はこう思うわけだ。
「あぁ、僕ゲーム作れるじゃん」と。
舞台はiPhoneアプリ開発へ
長岡技大は学生や講義だけでなく、休みも特殊だった。
三学期制なのに、三学期は豪雪のため基本的に講義なし、つまり、冬休み〜三学期〜春休みとずっと休み、100連休なんて呼ばれてたりもした。
精励恪勤な僕が、この余暇を使ってゲームを作ろうと考えるのは想像に難くないが、その対象は当時、時代の最先端であったiPhoneへと移った。
iPhoneは既に持っていたので、中古のMac Book Airを買い、Appleの開発者登録料を払い、なぜかInterface Builder(UIを作るやつ)を使い、必死にゲームを完成させ、ストアへ公開した。
初アプリは「兎に角逃げて」という、兎が上から落ちてくる障害物を避けるというダジャレ避けゲー。
当時はアプリ自体が少ないという事もあり、それなりに遊んでもらえたが講義の時のように色んな人に褒められるという事はなかった。
それもそのはず、講義の時とは比較対象が全く異なるからだ。
講義の時はあくまで、その講義を受けてる他の学生との比較だが、アプリは他の開発者との比較。
今ほどでないにしろ大企業もいたし、個人開発の良作もあった。
それらと比較してしまうと僕のアプリは明らかに霞んでしまっていたのだ。
ただ結果的にゲーム開発が楽しくなかったかと言えば、そんな事は全くなく、むしろかなり楽しんでやっていた。
ここから、僕はこう思っている。
「ゲームを作る事自体が楽しい事なのだ」と。
Twitterから始まる事もある
そこから在学中、30本以上のアプリをリリースし、累計100万DLを突破したのだが、このアプリ開発を通じて予期せぬ副産物があった。
それは開発者の友人が増えた事だ。
アプリの宣伝のためにTwitterを始め、アプリ開発関係の人たちをフォローしていたが、僕自身、社交的ではないので、積極的な交流をしていなかった。
しかし、Twitterという緩い空間のおかげで、緩い繋がりを持った人達が出来た。
さらに一度勇気を振り絞ってアプリ開発者の飲み会に出たおかげで、この勉強会は知ってる人がいるから行ける、この前会った人が主催の飲み会があるから行こうと、リアルでの繋がりも増えていき、気付けば結構な数になっていた。
実は新卒就職後、5ヶ月で転職してるのだが、その転職先へのコネもTwitterからの繋がりだし、今Nintendo Switchでゲームを作ってるのもTwitterからの繋がりだったりする。
ようは、僕はこう思いたいわけだ。
「ゲーム開発は人も人生も変えてくれる」と。
そしてこれからも
幼少期にゲームを作る事すら出来ないと思ってた人間が、ちょっと褒められて、ちょっと気付いて、ちょっと繋がっただけで、ここまで変わっていくというのも自分の事ながら感慨深いものがある。
この先もゲームを作ってお金を稼げるという保証はなく、常に不安しかないのだが、それでもきっと僕はゲームを作るのだと思う。
なぜなら、それはきっと楽しい事だし、僕も人生も変えてくれるだろうから。それに、こういう自分やその自分が作ったゲーム、
そしてこんな記事を見た人がこう思ってくれるかもしれない。
「ちょっとゲームでも作ってみようかな」と。
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