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撮らされるという感覚。

こんにちは。松下です。
気がつけば5月。すでに蒸し暑いような日が続いてますが、まだ5月。
これからくる夏がこわいような、そうでもないような。
春ってやっぱりないんですね。毎年のようにこんな感情になってる気がします。
そして毎年のように同じことを言っている気がする。
みなさんもそうでしょう。

さて、私は写真を撮ることを生業としているけれども
普段から写真を撮るひと、
仕事以外では全くもって撮らない、むしろカメラなんて触らないというひとがいるということ、
この業界では二極化している。
これはなにも写真業界に限ったことではなく、
料理人でも、普段から包丁をにぎるひと、全くにぎらないひと、いるだろう。

それがよい悪いという話ではないのだが
私は少なからず、
自分がなにかを表現しようと思ったときに咄嗟にでてくるものは、それが唐突であればあるほど
普段の何気ない行動に起因しているようにかんじている。

だって、自分のなかにあるものからしか、なにかを生み出すことなんてできないわけだから。
これはきっと自分が思っている以上に、そういうことであると思う。

見たことがあるものしか表現できないし、見たことがないもの、経験した事がない事柄は、表現することはおろか、考え至ることすらできない。

そう思いませんか。

これは子どもと接しているとよくわかる。
私の息子は今日保育園で覚えてきたことを、私や妻の目の前でよく、立派に披露してくれるし
たくさん語ってもくれる。
昨日まで知らなかったことを知ることができた喜びや、そしてそれを誰かに対して発表することの楽しさ、大切さを、彼はもうすでに知っている。
というか、大人になった私、あなたはその楽しさに慣れすぎていないだろうか。
大人になんてなりたくない。

言いたいことがまとまっていない状態で文章を書いている。
頭のなか、こんなかんじ。


おいしいご飯をつくる、だれかにそれを召し上がってもらうには、自分が本当においしいと思うものをまず「知る」ことが必要だし、
いい写真を撮る、その一枚でだれかの心を動かすには、いくつものいい映像や音楽、もちろん写真を「知る」ことと、それよりもなによりも
まず自分が目の前のことに感動している必要がある。

感動している必要がある、変な日本語だ。
目に映るものに、純粋に感動していて「撮らされる」写真が、私にとってのいい写真。
いい写真というか、いつまで経っても好きな写真は、全部そういう感情で撮られたものであった気がする。

それって、意識的にできる部分と
そうじゃない部分があって、
私にとってはそうじゃない部分のほうが大きいと思うんだ。
というより、そうじゃない部分が大事だと思う。
言いたいことがわかりますか、わかってほしい。
わかってくれたら、うれしいなあ。

だからもっと、笑顔になるように、腹を立てるように、涙を流すようにシャッターを切りたい。
ぼくが思うほんものの表現は、そこでしか実現できない。
そんなことばかり考えておるわけです。

楽しく写真を撮るのは大前提で、
今日はもっと踏み込んだところの話。
言葉にしてみることで、見えてくるものがある。

さて、今日はなにに撮らされるんだろうか。


松下

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