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人を頼る

 一人暮らしの重複障害者。家族との関係もよろしくないので、使える福祉の助けはなんでも借りる。

私は二つのヘルパー事業所と契約して、家事支援、通院支援、同行支援を受けている。
それと週に一度の訪問看護。

ヘルパーの支援を受けるというのも、慣れてしまえばなんてことないけれど、そこを受け入れるまでには葛藤がある。
そしてヘルパーさんにも当たり外れがある。

私が初めてヘルパーサービスを使ったのは離婚を前提とした別所を開始した三十代後半。
そのことを発達障害でかかっていた当時の主治医に伝えたら、「目の状態も安定してなくて精神不安も甚だしいから生活維持できない。合併症の鬱で精神(障害)申請する」と言われた。
そして精神障害二級に認定されて、ヘルパーの支援と年金を受け取る生活が始まった。

この時「生活の中に他人が踏み込んでくるんかい?」
とすごく嫌な感じがした。

何せ「私の年齢だったらみんなできてることを私は人にやってもらわないといけないなんて……なんて惨めなんだ」という気持ちがまず先に来た。
両親に対しても、私が障害者確定したことで「恥ずかしい」って思われるんだろうな……」と卑屈になった。

そんな気持ちがあるから、ヘルパーさんが来る日は緊張して余計疲れる。
次日はヘタレ混む……。
ヘルパーさんくるから家片付ける(AD/HDは片付けが苦手)
そして精魂使い果たす……。
という日々が続いた。

けれど、それも徐々に自分自身の障害を受け入れられるようになると「できないもんな……」も受け入れられるようになってきて、掃除はヘルパーさんに任せるところは任せて、自分のできることは自分でする。ができるようになってきた。

親といた頃、思い返せば、自分でできることは自分のペースでやっていたけれど、それでは母親のペーストは全く合わなかったようで、
「あんたはなんでも
とろくさい。やっても中途半端」
と罵声を浴びせかけられて彼女がさっさとしてしまう。
私が自分で考えて決めるべきことも全部決められて「こうしとけ。おはぎはこの家の子供なんだから、親の言うことを聞け」と結婚で家を出るまで言われ続けた。
その中で「私は何もできない子」という意識が植え付けられて社会に出てずっと生きてきた。

けれどヘルパーさんは私のペースを尊重してくれる。
一緒に片付けをしてくれる。

たまにハズレのヘルパーさんにも当たるけど、それはちゃんと理由を伝えれば別のヘルパーさんに交代してもらえる。
当たり前のことなのだけれども、介助や介護を受ける立場の人の多くは「してもらってるから」と思う気持ちが強くて言えない人も多い。
私も最初はそうでした。

それは育ってきた環境もあり、人に頼ったり、甘えることをしてはいけないと厳しく育てられてきたから、自分の中で「何は依頼してもいいことなのか?」が分別できなくなっていたのもあります。
だからいきなり介助や介護を受けるような環境になッタ時「こんなことをやってくれてるんだから文句言えない」と勘違いしてしまうのかもしれないなぁと。
どれは被介助者、被介護者の生活クオリティー下げてることになりますね。

これは被介助者、被介護者の意識が変わらないと解決しない問題だと私は思います。
それを私は結構長い時間をかけて「努力してもできないことは頼っていい」ということを理解して自分に許可を出せるようになりました。

今朝も衣替えの手伝いをヘルパーさんと一緒に行いました。
ついでにどこに落として紛れ込んだかがわからないアメジストのネックレスを「この辺のこの十日後の中のどこかに落ちてると思うけど、探すの手伝ってください」
とお願いして一緒に探してもらいました。

自分の生活ね中に他人を入れるということは恥ずかしいことではあるけれど、それができないからと頑なに心を閉ざして拒絶して、無理して意地を張っていると、自分自身も疲れてしまうものですね。

私は障害者の立場になるまで「人に頼る」というトレーニングが全くできていなかったので、障害を持つことをきっかけにこのスキルを身につけたのですが。
これをできない人は意外と多いのではないでしょうか?
特に世代が上の人ほど。

私の父も自分が末期の肺癌なのに認知症になった母を施設にも入れず、ヘルパーも入れず「わしの目の黒いうちはそんなんいらん」と言い張ってましたけど、正直なところ私も姉もええ迷惑でした。

人に頼ることが「恥ずかしい」って思う人だったんですね。
そんな両親の下で育っていたから元々は私もそう考えるタチでしたが、自分が障害者になり福祉のサービスを受ける立場になって「そんな頑なさは持ってても意味ない」ということを理解しました。

それになんでも「自分でやる」になってたら、その人がいなくなった時、残された周りの人は「これどないしたらええのん?」状態にもなるので、普段から一緒にやったり、頼ることで相手を育成することをしておくことも大事なんじゃないかな?と思います。
と、これは父が亡くなった後、家庭も会社も一人で抱え込んで何も人に託さず逝ってしまった父のおかげで結構大変な目にあっていたのを横目で眺めていて思ってたことなんですけど。

父は誰も頼れる人がいなかったのかなぁ……と思うと、やはり残念な人と思ってしまいます。

「人を頼る」ことは文字通り「信頼」がないとできないことですよね。

人を頼れるということは、自分自身が信頼できる心強い味方がいるということなんでしょう。

それはもちろん依存とは違う。
依存や寄生のような関係では「信頼」は生まれない。

人を頼れる。信頼できる存在ができた時、精神の自立も進んできているのだな……そう私は思います。
何でもかんでも依頼するのではなく、自分でできることの限界を理解した上で、助けてほしいことをお願いする。
その内訳は精神的自立ができていればきちんとできる。

自分でなんでもできなくても、精神の自立はできるのだ。

それが私が障害者になって学んだ「人を頼ると依存する」の違いです。
これからも上手に人を頼り、また頼りにしてもらえるように心がけていきます。

最後までお読みいただきありがとうございます。

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