見出し画像

褒めることと相手に敬意を持つこと


よくがんばったね、偉いね。には少なくとも2種類あるようだ。

今回は漢方や陰陽五行的な話ではないのです。かめこ家の懸念解決への糸口を模索しているというお話です。

「褒める」ということに一種の上から目線があるのではと思い至っています。
かめこには幼い頃に難病治療を経験して現在は治療を卒業して経過観察中の息子・かめジローがいます。
かめジローはそれなりに育って大学生で、バイトも頑張る普通の若者ですが、どうも口の悪いパワハラ気質の准教授や上司を引いてくる。
1年のうちにそんな御仁に2人も出会えば「こりゃ大した引きだ、何か課題がありそうだな」考察する親かめこであります。
はて、これはかめジローだけの課題なのだろうか?私は一体何を見せられているのだろうか、とここ数ヶ月考えてきたのです。

幼少期から入院したり強い薬を使った治療をいろいろ経験しながら現在に至っておるわけですが、普通に学校に通い、コロナ禍も切り抜け、受験も突破して大学生になりました。
凄すぎて私には眩しい存在です。
高校卒業するまではそんな感じで、息子の頑張りに尊敬しかありません。
高校に入ってからは定期診察は自分だけで行き、減薬の交渉も自分で主治医と計画して、治療終了に自分を持ち込み、かれこれ3年が過ぎました。大したものです。

パワハラ気質の上司や准教授の出現

ここ1年です。そういった類いに見える男性陣がかめジローの前に現れ始めました。かめジローには何かクリアしないとならない彼なりの課題がありそうです。
でも、どうもそれだけではなさそうな雲行きで、私にも何か課題がありそうだと思いました。息子のパワハラ准教授にへこたれている姿に腹が立っている自分がいました。
 准教授は「お前は馬鹿かアホか$€£&※〆々!」と平気で言うそうです。世間がこれほどまでにハラスメントの禁止勉強会などしていても、する人はハラスメントをしていると気がつかない。それをそのまま魔に受けていじけている姿がなんとも気の毒であり、不甲斐なくもあり。スルーすることが上手くできなくて。
そんなパワハラ気質准教授を雇い続けているアカデミアもなんだかなぁと思いました。

「馬鹿か」と言いつつも、さまざまに有益な体験の場を学生に紹介し、そういう場を作って送り込んでいる教授。どんどん経験値を上げてくれるような人なのですがどうにも口が悪い。どんなに力入れて報告レポートしても、ダメ出しだけ。それに傷つきストレスを抱えて風邪引いて大学を休みがちになっているかめジロー。
向かい風ばかりと感じている様子。

なんとか登校しているかめジローに
「がんばって偉いよ。」と声をかけ、褒めていますが、そこには全く持って敬意が無かったことに気がつきました。不甲斐なさとイラつきが80%です。

そんな口悪パワハラアホ気質准教授のバカ発言などスルーしとけばいい。出ること出て、言うことは言ったらいい。
本心からそう思います。クラッシャーに潰されるのもバカらしいので、そいつの口悪は聞かんでいい。持ってくる体験的授業やツテを使わせて貰えばそれでいいじゃんってのが本心。

パワハラジジイと直接対峙するかめジローが大変なのもよくわかります。でも逃げばかりではどうしようもない。

がんばって偉い。つらいものわかる。でも逃げてばかりじゃ、これからもパワハラ気質の人物を引きまくる。
だから今のうちにスルー力をつけて欲しい。

いいとこどりは悪ではない。生きる悪知恵も知って欲しい。

ちょっと、もしかして…私もかなり強く言っちゃってねぇか?

あれ、こんなこと言ってしまう私もパワハラっぽくないか?
彼の経験に敬意が欠けているのではないか?と思い、気がつきました。
息子に偉いじゃん、やら、すごいじゃん、と褒め言葉を言ってはいるものの、その立ち位置に何だか段差を感じました。褒めるって褒める側が1段も2段も上にいる感じがしたのです。

強くなって、スルー力つけて柔軟に生きて欲しいと焦っていました。スルー力の欠如は人生を自己破壊へと導く恐れがあります。
自己肯定力を著しく低下させ、「私はダメなやつだ」とか「私は価値がない」という方へ平気で落とし込んでいきます。時に立ち直りに数年かかることもあります。

口悪いことをパワハラ的に言う人の多くは自分で自分の価値を下げていることは往々にしてあると経験してきた私からすると、そんなおっちゃんは真っ向からスルーせいや、と言うしかないのです。
そのパワハラ気質ジジイも教養はあるでしょう。本も執筆し准教授です。優秀なはずだし彼のその経験や能力にはすごいなあと敬意を持つ価値はあります。
(でも、すごくもったいない。あれこれ力ずくなので、なんせ人望が…らしい。
ああ、口悪が大きな損失を招いている…)

 ところで、
私が家族間の会話でスルー力の取得についてあれやこれや言うことは彼の自由思考への介入にもなりえるのではないか。と思うに至っています。
スルー力は彼なりの形で身に着け、教えを乞う立場から上手く経験を得られる術を身につけつつあるのを、私の発言がぶっ壊していないだろうか、

究極アドバイスは求められていないかもしれん。

そう思うこともあり、努めて静観することもしています。

子が何歳になっても心配なのが親なのかと愕然としています。
木の上に立ち見守る腰の強さを鍛錬する必要性を感じています。
病を得た子ゆえどうしても転ばぬ先の杖を差し出そうとしてしまう。
「強くしなやかであれ」
と思うなら介入するなと自分を叱ってもいます。

子は一人の人間として己とは異なる経験を重ねている。それは何歳であろうとも。

その経験に深い敬意を。


私には無い経験を積んでいる。そして苦労も喜びも積み重ねている。それは唯一無二のものである。そのことを胸に刻んでつぶやきながら今日は静観しております。

(すでにあらゆる手段を準備して、如何様にもあれこれ動けるようにはしてあります。)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?