見出し画像

命がけの二枚舌、ショスタコービチと現代の無知なスターリン崇拝者

ショスタコービチの二枚舌

一ヶ月かけて、チェリーセージの花を、二枚舌のあかんべ草、と観察し、詩を書いた。これは、揶揄でも皮肉でもなく、チェリーセージの賛歌である。チェリーセージがなぜこんな絶妙な姿で咲くのか。キレイとかカワイイでは失礼である。

自然は、人間の思うがままに支配されない。地球が生み出す風という複雑なエネルギーに震える小さい花。よくみると、可憐なというには、あまりに堂々たる造形である。

自然、外なる自然はもちろん、内なる自然としての人間の生理も、矛盾に充ちたものである。あかんべ草は、その複雑系の典型として、独自の群れ宇宙と語り得る。

てなことを思っていたら、五木寛之さんが新聞エッセーで、しなやかな二枚舌、という題で書かれている。

ショスタコビッチという、二十世紀を代表する作曲家が、スターリン体制下命がけで二枚舌を生きる。何度も、退廃音楽の烙印を押されそうになる。それは、死を意味する。そのたびに、いかにもスターリン好みの大作を書き上げ、絶賛を勝ち取る。

その二枚舌の代表作が、オラトリオ森の歌、である。

日本でも、このスターリン賛歌を、厳粛な啓示のごとく聞き入る若者が無数にいた。

ショスタコビッチは初演のとき、会場には現れず、ホテルでむせび泣いていたという。

そんなことが、日本にいてわかるわけがない。スターリンの粛清の嵐の狂気も知らず、スターリンを崇拝していた。

以前書いたように、スターリン憲法の愚かな一文、働かざる者食うべからず、は日本人に深く刷り込まれた。

一見ソビエト体制賛美と聞こえるなかに、矛盾に充ちた響きが潜む。

ショスタコビッチの音楽の二枚舌は、二十世紀そのものの姿である。体制をこえて、それを感受して、世界中の音楽家が、ショスタコビッチに聞き入ろうとした。

二枚舌とは、音楽にとり、世界の背反を透かして見せる技法ともなる。芸術における二枚舌は、命がけの真剣さともなる。

チェリーセージをショスタコビッチと並べて語るのは、無理強いかもしれない。しかし、軽妙洒脱なショスタコビッチの音楽と、あかんべ草は、よく似合う。

ナチスの収容所の門



🐢働かざる者食うべからず。再度


語源を調べてみました。かろうじて、聖書のなかで一回だけ使われている。ただ、この言葉をのせた文章は、偽書と文献学では結論する。布教者が布施を受け取りもしないと自慢しているのは、たしかにおかしい。

布施を否定したら、仏教徒などはいきてゆけない。

この言葉を敷衍したのは、レーニンである。レーニンは、働かざる者とは資産家階級を指して、糾弾した。

ところが、スターリンは、この言葉を全国民の義務として、憲法に明記した。のちに、ブレジネフがこの条項を廃止する。

つまり、働かざる者食うべからず、とはスターリンが憲法に定めたことにより、世界に広まった言葉である。

日本人がこの言葉を知ったのも、戦後の社会党を中心とするスターリン崇拝者による。

近年は、生活保護受給者を非難する言葉として、自民党を中心に使われるようになった。ひどい、誤用である。

禅僧の言葉に、食えなんだら食うな、というものがある。しかし、禅宗の基本は、托鉢と乞食である。乞食は、釈迦の教団が日常の勤めとした。禅宗は、信仰の原点として、乞食行をさだめる。乞食さえも拒否されたら、修行者として失格である。

キリスト教でもイスラム教でも、信仰に生きる人への喜捨、布施は、最も重視される。


🐢アルバイト マハト フライ

ナチスが、全収容所の門に掲げた標語。労働は自由を作る?国家社会主義の標語として、スターリンと大差はない。

出典はある小説のタイトルだか、その内容とは関連性はない。

働けない者として、全障がい者の殺戮も、ナチスが実行した犯罪である。


労働を絶対神聖視する思想は、世界史のなかでは、第二次世界大戦の混沌のなかで生まれた狂気であった。

経済学の大前提は、生産と消費は対等な価値をもつ。生産が美徳であれば、消費も美徳である。生産性をのみ価値基準としたのでは、人間社会は成り立たない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?