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四天王寺の本堂=金堂の救世観音の前で、毎日継続される、お舎利。


金堂の救世観音

四天王寺で最も重要な法要、おしゃり


四天王寺で最も大切な法要をご存知ですか。多くの方は、彼岸会、と思われているかと?彼岸には、西の石の鳥居に沈む夕陽を礼拝します。これは、春秋の二回、四天王寺は参詣者でいっぱいに、そして必ず最後に経木流しにすべての人が亀井水に合流します。

彼岸は西への信仰ですね。


ところが、四天王寺には千年以上、毎日欠かさず続いている、より重要な法要があります。お舎利、とよばれる法要です。こちらの起源は東への朝日の礼拝です。

聖徳太子二歳の折り、父用明帝が毎朝欠かさず東の空を礼拝するのにならい、太子も東の空へ、南無と礼拝するようになる。そんな二歳の太子の掌から、仏舎利が現れた。そのお舎利を、参詣者も加わり礼拝する。

四天王寺の本堂は亀の池(亀井とまちがえないで!)の正面の六時堂と思われている方が多いです。

本堂は中心伽藍の、金堂です。金堂で、お舎利はおこなわれます。

お舎利とは、お釈迦様の遺骨です。

なぜ二歳の太子の掌から、それが出現したか。は、ともかく。

太子信仰の面白さは、二歳の南無太子、そして父用明帝の看病をする十五歳(かぞえ歳)の少年像が信仰されてきたことです。幼児、少年はまだ神の世界にいるというのは、古来の信仰でした。

ともあれ、お舎利はお釈迦様の遺骨です。

お釈迦様が亡くなるとき、回りの木々も色を失い、立ちすくむ鶴に見えた。涅槃のお姿を月が照らしていた。

慈円

故郷の鶴のはやしに入る月の

    わくる光は亀井にそすむ

試みの観音


四天王寺秘仏、試みの観音様。

金堂にいらっしゃる、四天王寺全体の御本尊である、救世観音様を造像するために、試みに造られた小像とみなされている。

七世紀末頃の作品で、半跏思惟像は、本来弥勒菩薩のお姿である。

金堂に、御本尊として弥勒菩薩をお祀りしたのは、天智天皇であったと伝わる。

663年白村江で唐・新羅連合軍に大敗を喫した天智天皇は、唐の強大な海軍の侵略を恐れ、四天王寺の四天王を西向き一列に並び替え、弥勒菩薩を寄進したという。

その弥勒菩薩が、いつしか、聖徳太子の本地仏である救世観音とみなされるようになる。

したがって、この弥勒菩薩像も救世観音とされ、御本尊造像のための、試みの観音様と信仰されるようになった。

秘仏であるが、8月9日10日のみ開扉される。四天王寺では、この両日を、観音様の千日分の功徳がいただける、千日詣りとされている。

千日詣りの信仰は、地域、寺社により、様々な日が決められている。観音信仰では、江戸の浅草寺、京の清水寺、神社では京の愛宕神社などが有名である。


以前は六時礼賛堂に安置されていたが、今は、聖徳太子の本地仏として、太子殿に遷座されている。

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