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晋書天文志の隕石の記録。andツングースカ大隕石。
#大隕石 ツングースカ大爆発。 1908年6月30日7時2分シベリア、ツングースカ地方で大爆発が発生。 空振による発熱で半径30~50キロメートルの森林が炎上。 2…
歌の翼に~とみのいのみず・亀井の歌と聖徳太子の歌・全(約1万字)
「日出ル国」の原風景~史跡四天王寺亀井水2015年作成レポートより、抜粋
亀井の歌・とみのをがは亀井という名前が確認できるのは、相模家集の中の次の歌が最古のもののようです。
「千代すぎてはちすの上にのほるべきかめ井の水に影は宿さん」
「栄花物語」によれば、1031年、時の皇后藤原彰子(しょうし)が四天王寺に参詣し、亀井の水を手にすくい歌を詠みました。
「濁りなき亀井の水をむすびあげて心の塵
晋書天文志の隕石の記録。andツングースカ大隕石。
#大隕石
ツングースカ大爆発。
1908年6月30日7時2分シベリア、ツングースカ地方で大爆発が発生。
空振による発熱で半径30~50キロメートルの森林が炎上。
2150平方キロの樹木がなぎたおされる。(被害総面積約7000平方キロ?)
1000キロメートル離れた家屋のガラスが割れた。
火球が目撃され、20数回の爆発音があった。
2013年の調査で、隕石由来物質を発見。隕石説が確定す
菊花紋は、あれ?菊ではないような気がします。
菊花紋を天皇が使用するようになったのは、鎌倉時代からです。
根本的な疑問ですが、菊花紋は菊なんでしょうか?
まず、万葉集には菊はいちども登場しない。おそらく、古代には、菊と呼ばれた花は日本にはなかった。
中国から伝わった栽培菊は、こんもりとまん丸い花が大部分です。
だから、基本的に菊花紋は菊とは言いがたい。
多数の花弁が放射状に広がる花は、菊以外に無数にある。
それらは野菊と総称されま
露天神=お初天神、曽根崎心中の世界と水の信仰、大阪観音霊場道行「恋を菩提の橋となし」
曽根崎心中、を検索したらFacebookさんのAIは
「お悩みごとがあるならだれかに相談しませんか」
と返事した
心中、という言葉はあかんねやね。
おみゃあ近松門左衛門を知らんのか!
気を取り直して。
大阪湾に砂州・ラグーンが形成されるなか、曽根州→曽根崎の、古代の天皇の神事八十島祭り、にかかわる信仰が根底にあるのではないか。
大阪、梅田の露天神、愛称お初天神。恋人の名所に、おじさん
沖縄返還記念日に、古代沖縄の亀(ク)の道を偲ぶ
5月15日は沖縄返還記念日です。
さて、大阪ではハチャメチャになった万博にむけて、わーわ~言うとりますが。メタンガスの爆発は、どうとりつくろっても、あかんでしょ。災害時の避難計画もおざなりで、そんなとこ行くお方はいらっしゃるのやら。
日本で初めての万博は、明治時代の大阪勧業博覧会でした。その跡が、天王寺公園、動物園、新世界界隈です。その催し物、学術人類館をめぐり、ひともんちゃくがありました。
大阪名所一目お詣り聖徳太子の亀井水。水鏡朝日に光る亀なれば。
四天王寺のおみやげで、私のお勧めが亀の文鎮。
南部鉄の名工の作品です。
じつはこれ、私がお勤めしていたときに、馴染みの信者様が下さった、旅のおみやげでした。窓口で使っていたら大変な人気者に。亀文鎮の回りに御賽銭をおいてくださる。
私が退職したあと、製造元を調べて、仕入れはったようです。
次の写真は、明日香村観光案内所で売っていた、ミニチュア。地元の陶芸家の作品で、いろんなサイズがありました
笏の持ち方。聖徳太子の時代には笏はなかった。おそらく大型木簡だろう。
笏の持ち方の作法。
原則として、右に持ちます。
写真1*おじゃる丸。正しい。
写真2*聖徳太子飛び出しくん。左右の向き二種類あるが、右向きのこの人は笏を左手に持つ、誤り。
写真3*長屋王邸宅跡出土木簡に落書きされた、当時の役人像。ダブダブの大きな袖口が流行し、手を隠すようになる。これでも、笏は右手に持つ。
写真4*法隆寺聖霊院聖徳太子像。両手で捧げ持つ板を、笏と解釈している。しかし、笏の
京都三条の檀王法林寺で沖縄芸能が里帰り
沖縄に念仏信仰をひろめた、袋中上人は京都の檀王法林寺のご開山。
中国、明への留学をこころざしたが果たせず、沖縄に三年逗留し念仏をひろめた。
この念仏が、沖縄の芸能と融合し、今日につたわる。
というわけで、袋中上人ゆかりの檀王法林寺で、シンポジウムと公演がおこなわれた。
本番の録音、撮影は禁止。
檀王法林寺と沖縄。HPより
四天王を祀る山門
京都の中世の念仏や芸能が、沖縄であらたな花ひ
昔の権威ある学者が四天王寺と聖徳太子は関係ないと推理した。戦後の発見を踏まえ、目の前の亀井水を見て、知識を新たにする。+写真集
科学は仮説に基づく厳密な論理である。
という説明を見て、仮説やからなんでもありか、と早とちりする人がいます。
仮説とは何でもありという意味ではありません。
資料や遺物をいかに説明するか、様々試行錯誤して、最も合理的な前提を仮説として明瞭にするのです。
しかし、仮説であるから、絶対ではない。
まず資料や遺物などがあります。その量も解釈も変わります。そこでまた仮説を再検証する。
聖徳太子は