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或る書状

 こんな書状が届いた。


 ――私は彼の、無造作に前髪を散らし、眼に涙をためて俯いて座っている様子が今でも忘れられません。この男はいきなり、「僕には君を幸せにできない」と言ってきました。彼は少し前から世に言う「浮気」をしていたようなのです。
 彼とは、大学に入学した直後に入会したバドミントンのサークルで出会いました。同じ学部で、趣味や音楽の好みが似通っていたこともあり、すぐに意気投合いたしまして、気付けば1年半を共に過ごし、同棲生活を始めておりました。
 彼の言葉は、あまりにも唐突に突き刺さり、何も口にすることができませんでした。その中で、「どうするの?」と、聞きましたが、彼は俯いたままで、何も答えません。
 それから数刻、沈黙が続きましたが、私はその日もアルバイトへ行かなければなりませんでしたので、黙って手提げ鞄の中に、制服とメモ帳と財布を詰めて、玄関を出ました。彼はその間、微動だにしませんでした。


 私のアルバイト先は、下宿から歩いて二分ほどの距離にある、コンビニエンスストアです。1回生の夏休み頃から、主に夕勤を主戦場に勤務しております。この時間帯は、学校終わりの学生や会社帰りの人々で賑わいます。老若男女、本当に多種多様な人がやって来ます。
 ある日には、学校帰りの男子高校生三人組が、各々飲み物を購入していったのですが、レジの前で「なんでそんなものを飲むのか」ということだけでじゃれあっておりました。レジカウンターの内側で見ていた私は、何がそんなに楽しいのか、理解することが出来ませんでしたが、彼らの中には彼らだけが見える世界が広がっていて、そこではどんなに些細なことや、傍から見たらどうでもいいような事でもどこか輝いて見えるんだろうと思い、微笑ましい気が致しました。
 またある日には、押し車を押すおばあさまがやって来ました。もう80も後半に差し掛かったような方でございました。この方に「雪なんとかのコーヒーはあるかえ?」と聞かれましたので、走って取りに行きましたところ、「これが美味しいんよ」「違う時間帯に来てみたんじゃが、店員さんはいつも優しいねえ、ありがとうねえ」と仰ってくださいました。その時間は帰宅ラッシュで忙しくなっておりましたが、気付けば立ち止まってしっかりとお辞儀をしておりました。こういう方が増えていけば、この世の中はもっとよくなると思いました。
 今までも、そしてこれからも心に残り続けるのは、工事現場で働く中年の男性がやって来た日です。その男性はチルド弁当を購入されまして、私はいつもの調子で「お弁当はお温めいたしましょうか」と聞きましたところ、「当たり前だろ」と怒鳴られてしまいました。また、レジ袋も有料化しておりましたので、「袋はご利用になりますか」と聞きましたら、10年存在が隠されていた汚物でも見るかのように目を細め、「五月蠅ぇな。つけるに決まってるだろ」とまたも怒られてしまいました。袋にお弁当を詰めて、このお客様にお渡ししたところ、引ったくるようにして帰って行かれました。理不尽さに涙を流しそうになりながら、きっとこの男性には、はけ口が無いんだろうなって、こうすることでまた明日、この人は何とか現場に向かえるんだろうなって、悲しみを押し殺し、笑顔を絶やさず対応しました。
 他にも様々な人々と関わります。新たな発見や心が温まる事だけではなく、時には心を痛める経験をすることもございます。また、お客様は、コンビニの店員を「最良のサービスを絶えず、積極的に、過不足なく提供してくれるだけのどうでもよい存在」という捉え方をなさっているのだと常々感じます。我々店員がどういう生活をしているのか、その時間帯の業務がどういうもので、どれくらい大変なのかということは、まるでどうでも良いことなのです。
 それでも私は、このコンビニで働くことが好きです。働く中で様々な人間の姿を目にして、その人の為人や背景を、話す言葉や購入なさる商品、一挙手一投足から考え、無礼なことだとは存じますが、「その人像」というものを作り上げていくのが、一つの趣味となっておりました。理不尽に怒られた暁には、より一層「その人像」が浮彫になってくるわけですから、しめた!と思えるようになっていました。


 そんな事を思い出しながら歩いていたら、いつの間にか店舗の前まで来ていました。幾度となく聞いた入店音を右耳から左耳へと流しつつ、ドアをノックして、事務所へ。事務所は人が二人通れるか通れないかといった具合の幅で、足下には販促の為のチラシやPOPが詰め込まれたボール箱が掲出する日時や種類によって整列しています。レジカウンターへと出る扉の上部には、モン・サン=ミシェルのジグソーパズルが額縁に入れられて鎮座しています。
 「広子ちゃんお疲れ~」事務所奥のモニター席から、次の週のシフト表を作成する店長が、画面を凝視しながら声を掛けてくれました。「シフトづくり、順調ですか」と聞きますと、「今週もなかなかピースが足りないね」そう言って店長はコロコロ笑いました。歴史上の人物で言えば、西郷隆盛のような外見をなさっているので、そのギャップにいつも思わず吹き出しそうになってしまいます。
 そこにもう一人の夕勤の人がやって来ました。その方は石井さんという、私より1回上の学年の方で、私がこの店舗で働くようになるよりもちょっと早く勤務し始めておりました。ですから姉弟子のようなものなのですが、石井さんは出勤前に口を瞬間接着剤で固めてしまっているのではないかと思ってしまうくらい寡黙な方で、業務連絡以外に殆ど会話をしたことがなく、素性がよく分からない方でした。ですが、一緒に仕事をするには事欠かない方でしたので、特段気にすることもございませんでした。


 レジカウンターへの扉を開け、「いらっしゃいませ、こんにちは」と、挨拶をハキハキと行います。研修の時はとにかくこの挨拶を徹底させられたものです。「広子ちゃん今日も元気ね~」と声が聞こえてきました。その主は、パートタイムで働く主婦の北森さん。最近、私はほぼ毎日コンビニへ出勤していましたので、引継ぎの際によく話す間柄になっていました。引継ぎの時に、肉まん100円セールだから多く作成するように、販促物の展開を進めておくように、と指示がありました。
 私は業務時間外でも、コンビニのグループLINEを逐一確認して、店舗の事情を把握するよう努めておりました。大学での授業中や、家にいても今頃はこの業務の時間だな、といったように考えるようになっておりました。だから北森さんが話してくれたことも、把握済みでございました。
 昼勤の方々が帰られたあと、石井さんにレジ対応をお願いして、私は床・トイレ清掃に回りました。1日の主たる活動が終わるこの時間帯の床やトイレは、この店舗にやってくる人々が、「誰かがやってくれるだろう」精神によっかかっているのが見え見えの状態になっております。ただそれも、人間の根っこみたいな部分が見えて、面白いものです。
 掃除を一通り終えて、レジへ戻ります。肉まんやチキンなどの揚げ物系(FF)が大分売れているようで、ホッターズ内はほぼ空になっていました。18時頃の混雑を見込んで、多めにFFや肉まんを作成しておきました。
 18時。予想通り、沢山のお客様がいらっしゃいまして、私の作戦は上手くいきました。夕勤で一番忙しいのは、この店舗では18時~19時の1時間です。というのも、スタッフの一人が、ウォークイン内でドリンクの補充作業をしなければならず、その間多くのお客様のレジ対応を、もう片方のスタッフが一人で捌いていかなければならないためです。また、ウォークイン内の補充も、この1時間で済ませなければならず、手際のよさが求められます。今日は、私がウォークインへ、石井さんはレジ対応ということになりました。
 ウォークイン補充のみならず、レジ対応にしても何にしても、コンビニの業務は単調なものが殆どでございます。そのため、思考する脳の余裕が出来るのです。先に話した「その人像」づくりは、その余裕の中の一環でございます。しかし今日のウォークイン内には、いつもの3倍ほどの量の段ボールが積み上がっており、考え事をしている暇などございませんでした。ひたすらボール紙を開いて、ドリンクをラックに補充して、余剰分は反対側の棚に整列させて・・・・・・と繰り返していましたら、あっという間に時計の長針は一周しておりました。
 何とか19時を60度ほど過ぎた時分にウォークインの業務を終え、店舗裏のゴミ置き場にボール紙をまとめて、レジカウンターに戻ってきました。すると石井さんから、「今日は忙しいですね」と声を掛けられました。穏やかな声色でしたが、今日はどこか当てこすっているように聞こえてしまいまして、声にならぬ声で、そうですね、と目も合わせずに返事をいたしました。 
 それから20時頃までは、レジカウンターや電子レンジ、フライヤー周辺の清掃を行いながら、レジ対応も行っていきます。この時間帯が、夕勤の中で最も余裕のある時間帯です。レジ清掃を終えたあたりで、二人の親子が入店しました。
 お父様の方は30代後半から40代くらいだったでしょうか。とにかく長身だったと記憶しております。お子様は3~5歳ほどで、どちらも外国の方だと分かる風貌でした。私は彼らが商品を選ぶのを横目に見ながら、FFを作成していました。お父様はおつまみコーナーで、今晩のお供を探していました。何を選ぶのか予想していたら、いつの間にかカゴの中には煮干しとピーナッツが小分けになっている商品が入っておりました。見た目も手伝ったのか、想像のつかないチョイスでした。お子様の方はメントスとアンパンマンのチョコを握りしめていました。その様子は「ちびっこ」という感じが本当にマッチするようでした。
 彼らがレジにやって来ます。私は商品をスキャナーに通していきます。何事もなくお会計が済みました。おつりを渡し、「ありがとうございました!またお越しくださいませ」とテンプレートのように声を掛けたところ、ちびっこが「ありがとうごじゃいました」と返してくれました。この世の穢れを何も知らないような目で、欲しいものが得られた喜びをこれでもかと顕わすような、屈託のない笑顔で。

 大丈夫ですか、という石井さんの声を聞いて、私は涙をこぼしていることに気がつきました。


 そういえば最近、彼とは一緒にいてもほとんど会話が生活上必要なことに終止していた気がする。一緒のベッドで寝ていても、別に愛を見える形にしているわけでも無かった。ただ、一緒に生活しているだけになっていた気がする。彼の笑顔、最後に見たのいつなんだろう。
 この日のバイトは何故だか激務だったから今まで考える余裕が無かったけれど、本当はすごく怒ってる。彼の、言動にとても腹を立てている。衝撃すぎて、整理がつかなくて、家出る時には殆ど言えなかったけれど。

 別に浮気したことを咎めているんじゃありません。一年半も共にしているのだから、目移りくらい、するものだと思います。まあ、勿論その浮気相手の女性が同じサークル内の後輩だったということを聞かされたときは、流石に腹が立ちましたが。ですが、それよりも何よりも、浮気が露呈してしまったことを理由に、「僕には君を幸せにできない」などと、言い訳をしたことに対して、私は許せないのです。
 君を幸せにするとかしないとかいう、いわゆる「義」を彼は重んじているようですが、浮気をしている時点で、こんな「義」なんてものは破綻しているのです。「浮気をしてしまった、だから僕は君を幸せにできない」なんてパートナーに言うべき言葉ではないのです。「義」を重んじるのであれば、浮気をしてしまった事実は、墓場まで持っていくことをその瞬間に決意し、それまでと同じようにパートナーをしんから愛し続けるという覚悟を持つべきなのです。絶対にその事実は、自分の中だけに抑えこんでおく必要がある。その覚悟がないようでは、浮気などしてはならぬのです。
 彼がした事は許せません。けれど、それは即ち別れるという選択を取りたいということではありません。その次元での怒りではないからです。私が感じているのは、親が子に対して抱くような、そういう怒りです。善くしていきたいと思う類のものです。彼がどうしてここに至ってしまったのか、そして私はこれからどうしていきたいのかということに、しっかり向き合いたい。これからも笑顔で彼と、いられるように。こんな事が、頭の中を駆け巡っておりました。


 その後の時間は、石井さんが残りの引継ぎ業務をこなしてくれて、私はレジ対応をするだけでした。これ以降、お客様の足が落ち着いたのも幸いでした。
 そして21時。業務終了です。「いらっしゃいませ、こんばんは」事務所に繋がるドアが開いて、準夜勤の山田さんがレジカウンターに入ってきます。いつもならここで、ワンオペ頑張ってください、とか何とか言っていたのですが、今日は何だかその余裕は無くて、すぐに事務所へ戻って帰宅の準備をしました。
 店長はいつも、業務後にラテやアイスコーヒーを差し入れてくれます。私はそれにいつもあやかっていたのですが、今日ばっかりは、「結構です、お疲れ様です」と深くお辞儀をして、店舗を後にしました。
 店舗の駐車場から夜空を見上げると、そこには上弦の月が朧気に輝いています。いきなり家を飛び出してきちゃったな、ちゃんと話すのなんて、いつぶりだろう、と今更ながらに気まずさを感じて、急に家に帰る足が重くなってしまって、少時空を眺めていると、
 「ひろちゃん」
と、聞き馴染みのある声が聞こえてきました。向き直ると、そこにはいつも以上に無造作に散らかった前髪が見えました。

――以上が全文である。本人の意志で公開する。畢竟どうなったのかは分からないし、これ以降彼女の音沙汰も無い。

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