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6 魔法の文通「疲れた足は、歩いて治そう」かっこちゃんへ

「疲れた足は、歩いて治そう」

かっこちゃん、お手紙ありがとう。
こうして手紙を書くことが、今の僕の心を平安にしてくれる。

北海道の講演から戻って家で一泊した後、車で信州に向かいました。
僕の師匠である糸川英夫博士の終の棲家が上田市にあって、そこで話をしました。
糸川先生のお誕生日に。
86歳で亡くなった先生が、もし生きていらっしゃったら109回目のお誕生日だったわけです。

最晩年の10年間、ずっとそばにいさせていただいた先生の家はいまもなお先生の息遣いまで聞こえてきそうだったよ。

僕は、糸川先生の遺志を継ぎたいという思いでイスラエルへの旅を続けてきました。
先生と一緒に6回、そのあと26回も旅をしてきて、1000人を超える人たちを彼の地にお連れしました。
かっこちゃんと一緒に行った先月の旅も、きっと糸川先生が見守ってくださっていたのだと感じています。

僕は、「糸川英夫」について語ることをしてきませんでした。
それは、師匠について知っていることを話すことより、師匠から学んだことを実践して生きて、そのことで影響を与えられる人間になることが、語るよりはるかに大事なことだと考えているからです。
 知っていることはどれだけ話しても、人を動かしたり、変えたりしません。
知識に人を変える力はありません。
でも、その知識を知恵として喜んで生きている人に触れるとき、人は知らずに新しい一歩を踏み出してしまうものです。
とはいえ、先生が亡くなった後、先生に近づくどころか、その偉大さがどんどん大きくなってゆくばかりです。

かっこちゃんと一緒に行った、鹿児島は大隅半島、内之浦にあるロケットの発射基地。
あの太陽系探査機「はやぶさ」を打ち上げたところ。
僕は、2003年の5月にその打ち上げに立ち会わせてもらったんだ。
記者席は発射台から2キロのところ。でも、僕は宇宙研の記録班の席、発射台から300メートルのところで打ち上げを見た。
 何時間も前から待って、秒読みにドキドキしたのを昨日のことのように覚えています。
10・・9・・8・・・写真を撮ろうと身構えました。
3・・2・・1・・0・・その瞬間ロケットに点火された炎が見えました。
かっこちゃん、光は瞬時に届くけれど、音が届くまでに1秒かかるのです、300メートル離れていると・・・1秒後に届いた音の凄さ、空が割れるかのような衝撃波、僕は身動きができませんでした。

銀の龍が空に昇ってゆく。

ロケットの1段目は、ほとんど燃料です。70トンの固形燃料を70秒で燃やして飛んでゆくのです、70キロ上空まで。
そのエネルギーを浴びて、ロケットを目で追いかけて、上を向いて涙をこぼしました。
上を向いて涙がこぼれたのは、生まれて初めてでした。

糸川先生の思いがカタチになり、次々と継承されて多くの人たちが繋がり合って現実を創造している。 感動しました。

糸川先生がいなくなって数年の間、僕は力を失ってしまいました。
きっと僕は先生に「依存」していたのでしょう。
糸川先生のようにできなくても、僕は、僕の色彩で先生が願ったことを伝えてゆこうと思えたとき、また歩き始めることができたのです。

それでも、先生について語ることは控えてきた僕が、師匠を語ることにしたのは、
「頼まれた」からなのです。

頼まれごとは試されごと、
 返事は0.2秒
 「はい」か「イエス」か「喜んで」
 できない理由は言わない。

これも師匠から学んだことです。
だから話すことにしました。

そんな僕の気持ちを察してか、親友の出路雅明が出張先の高知から飛んできてくれました。
そして、こんなふうに言ってくれました。

「赤塚高仁、師匠 糸川英夫を語る

長野県の糸川先生が晩年を過ごした家にて

糸川英夫とは・・・・

みなさんもご存じかと思いますが、
あの太陽系探査機はやぶさ
小惑星イトカワ
ネーミングの元になった人です。

糸川英夫さんは、
第二次世界大戦前、
隼戦闘機を設計した人であり、

日本の宇宙開発の父、
ロケット開発の父でもある

その後、様々な分野での研究をされた後
イスラエルと日本を繋ぐ役割をされた方です

その一番弟子が、赤塚高仁さん

赤塚さんは
糸川先生の遺志を継ぎ
ヤマト・ユダヤ友好協会を立ち上げられ

ちなみに2022年7月23日
その協会の2周年イベント
「シャロームフォーラム」が開催され
私も理事の一人として参加させていただきます。

くどくどした解説はほどほどに・・・

赤塚さんの話を聞いて

人と人の出会い
師匠と弟子の出会い

たった一人の人との出会い

出会いが生み出すエネルギーや未来
すごいなぁって思った

言葉や生き様を通してエネルギーが
ストーリーとなって受け継がれてゆく

一部ですが、以下は
糸川先生が赤塚さんに残された言葉

「前例がないからやってみよう」
最も糸川先生らしい言葉

「私は、何もわかっていないことがわかった」
晩年に糸川先生が赤塚さんにそう言った

「国を愛する心」
一番大事なことだと言っておられたそうです。

「自分で考えなさい」
赤塚さんに最後に言った言葉

「May I help you?」
「何かお手伝いすることはありませんか」
それをいつも大事に生きてゆこう

糸川先生と赤塚さんの
師匠と弟子のストーリーに触れ、感動しました。

そして赤塚さんが
師匠のことを楽しそうに話される姿に

赤塚さんのログハウスで
いろんな人とのいろんな話を聞かせてもらった
あの頃のことが蘇った

あの頃と同じように、むっちゃ笑ったし
ホロっときたしエネルギーもらったし
むっちゃ楽しかった!

ご一緒したみなさん
ありがとうございます

主催してくださってありがとうございます

赤塚さん、糸川先生ありがとうございます。か

長野県上田から京都まで
上越新幹線と東海道新幹線
4時間の車中にて」

かっこちゃん、
糸川先生と一緒に生きてゆけばいいんだね。
そうすれば、糸川先生はずっと生き続けることができる。

そんな風にして、イエスの弟子たちも先生のことを生き生きと語り継いできたに違いない。

人は、二度死ぬのだと改めて思う。
一度目の死は、肉体が滅びるとき。
もう一度の死は、すべての人から忘れ去られるとき。

今を生きる僕たちの役割は、
先にこの世を去った大切な人を心の中に生かし続けることだね。
美しく輝かせることだね。

糸川先生を語った翌朝、ホテルのテレビに昭恵さんが映っていた。
安倍派の国会議員のみなさんに弔問のお礼を言いにいかれたのだとニュースは言っていた。

「いまだに信じられない思いです。
 主人は、日本をいい国にしたい、
 子供たちの未来が輝く国にしたいといつも願っていました。
 派閥の会長としてやりたいことがたくさんあったと思います。
 ぜひ皆さんで引き継いでいただきたい」

そう話されたそうです。

かっこちゃん、僕はいまだに昭恵さんにかける言葉はないけれど、
思いはずっとあるよ。

人は死んでも死なない。

夢や目標は、その人が死んだら消えてしまうけれど、
ひとりが胸に抱いた志は、受け継がれてゆくのだと知ったよ。

人が生きるということは、一人じゃないってことだね。

数えきれないご縁で今の自分が存在していること、感謝でなりません。

かっこちゃん、今日は東京で「シャロームフォーラム」
糸川先生の志を受け継いで願晴ってきますね。

報告を楽しみにしててください。

じゃあ、またね
・・・・・・・・
『魔法の文通』(モナ森出版)文通 赤塚高仁・山元加津子 絵 リカ
の続きを書いています。

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