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【美術館】春陽会誕生100年 それぞれの闘い(東京ステーションギャラリー)

 2023年10月8日(日)、東京ステーションギャラリーに、『春陽会誕生100年 それぞれの闘い 岸田劉生、中川一政から岡鹿之助へ』を見に行きました。
 展示期間は、2023年9月16日(土)から11月12日(日)までです。年明けから、栃木、長野、愛知を巡回する予定のようです。
 以下、メモを残します。(今回は、前提として知らないことが多かったため、調べながら書いた点が多いです。「そんなの常識」と思われる方も多いと思いますが、ご了承下さい。)


■官展の流れを汲む「日展」と在野の「二科展」について

春陽会は1922年に帝国美術院、二科会に拮抗する第三の洋画団体として、すでに知名度のある画家たちにより組織された歴史ある美術団体です。

配布チラシより抜粋

 配布チラシでは、この後もう少し解説が続くのですが、先に「帝国美術院」と「二科会」について少し触れたいと思います。なお、1922年は大正11年、今から約100年前です。

(1)帝国美術院について

 官展(政府が主催する展覧会)の流れを汲む大正期の団体。現在の日展に続いています。

<大まかな流れ>
・1879年(明治12年)、日本美術協会が創設される。
・1907年(明治40年)6月、美術審査委員会による第1回文部省美術展覧会(文展)が開催される。
・1919年(大正8年)9月、帝国美術院設立。
・1937年(昭和12年)6月、帝国芸術院設立。
・1946年(昭和21年)、第1回日本美術展覧会(日展)が開催
・1947年(昭和22年)、帝国美術院が日本芸術院に改称。
・1958年(昭和33年)、民営化され現在の日展に続く。

 現在の日展は、日本画・洋画・彫刻・工芸美術・書の 五つの部門からなるようです。

(2)二科会について

 1914年(大正3年)文部省美術展覧会から分離して、在野の美術団体として結成された団体。当時の文展で、「日本画」は新旧の二科に分かれていたようですが、「洋画」は分かれておらず、Wikipediaによると、旧科の文展に対する新科「二科会」として結成したようです。(洋画と日本画については後述)
 現在の二科展は、絵画部・彫刻部・デザイン部・写真部からなります。

1889年(明治22年)に日本最初の洋風美術団体「明治美術会」が創立され、7年後の1896年(明治29年)に東京美術学校に洋画科が設置されたのが、わが国洋画壇の黎明期であり、この頃フランスに留学していた新進の芸術家が帰朝するに従って、文部省展覧会の審査に新・旧の価値観の違いが目立ってきました。そこで、新・旧を一科と二科に分離するように政府に要求しましたが、時期尚早なりと却下されました。
 そのため1914年(大正3年)文展(文部省美術展)の洋画部に対して新進作家たちが新しい美術の確立を標榜して、在野の美術団体「二科会」を結成し<以下省略>

二科会のHPより抜粋

(補足)洋画と日本画について

 「洋画」も「日本画」も日本人が描いた絵です。明治以降に作られた言葉で、油絵や水彩画などの西洋風の絵を「洋画」、岩絵の具などを用いた絵を「日本画」というようです。概念はもっと複雑なようですが、簡単に記載しました。以下、手持ちの本から引用します。

 言葉としての「日本画」は、明治以降に入ってきた西洋美術の影響を受けた「洋画」に相対するものとして生まれたもの。<中略>
 (日本画とは、)原則的には「日本の伝統的な技法・様式に従って描かれた毛筆画。岩絵の具などを用い、絹・和紙に描く。明治以降、油絵などの洋画に対して言う(『大辞林』第三版)のでしょう<以下省略>

秋元雄史『一目置かれる 日本美術鑑賞』(大和書房)P168 より

 「官」と「在野」、「日本画」と「洋画」などで、マトリクスを作ったりすればよいのかもしれませんが、間違うと問題になりそうなので、ここではやめておきます。

■今回の展示:春陽会について

(1)春陽会について

春陽会は1922年(大正11年)、小杉未醒、足立源一郎、倉田白羊、長谷川昇、森田恒友、山本鼎、梅原龍三郎、さらに客員として石井鶴三、今関啓司、岸田劉生、木村荘八、中川一政、萬鉄五郎が参加して、院展洋画部と草土社が合流した団体として創立されました。

春陽会のHPより抜粋

 ここで、「院展」という言葉が出て来ました。「院展」とは、1898年(明治31年)、岡倉天心が東京美術学校を排斥されて辞職した際に、連座して辞職した美術家達と結成した「日本美術院」およびその展覧会のことです。当時、民間最大の美術団体だったようです。
 春陽会は、この「院展」の日本画部と対立し、脱退した洋画部同人を中心に創立されました。

 また、展示パネル(図録)より、その趣旨部分を少しだけ引用します。

 彼らは同じ芸術主義を持つ画家たちの集団であろうとはせず、それぞれの画家たちの個性を尊重する「各人主義」が大事であると考えました。また、展示会場には油彩だけではなく、形式にとらわれずに版画、素描、水墨、さらには新聞挿絵の原画などが出品されました。

展示パネル(図録)より引用

(2)展示を見た感想

 箇条書きで感想の記録を残したいと思います。

  • 春陽会の創立から1950年代頃までの展開が対象で、約50名の画家の作品が全国の所蔵先から集められていました。絵の横に、画家の方の経歴や影響を受けた人や作風などが、パネルとして設置されています。私は、結構パネルなど読んでしまうタイプなのですが、そうすると絵を観るのが疎かになってしまいがちなので、結局2周ぐらいしました。

  • 途中で春陽会を去ることになる岸田劉生への批判にも挙げられていましたが、展示の前半は暗めの印象が強く、後半明るくなっていく印象を受けました。この点、時代ごとの絵の雰囲気・変遷など、もう少し深堀りしてみたいです。また、新聞や小説の挿絵なども展示されており、その作風を懐かしく感じる部分があるとともに、現代に向かって変わっていくのは、どのような契機や背景などがあったのかな、と思いました。

  • 気になった画家の方は何名かいらっしゃったのですが、後半名前が挙げられていた中川一政さんと岡鹿之助さんに触れてみます。
    中川一政さんのパネルには「私は技術というものを第一に考えなかった。」とありました。確かに、力強く大胆な描き方が印象的でした。中川さんは本も出されているようなので、図書館などで借りて読んでみたいと思います。他方で、岡鹿之助さんの作風は大変繊細な感じがして、ある意味対照的だったように思います。今回の写真は、岡鹿之助さんの作品です。この食卓の作品を見たくて、足を運んだ部分もあります。

  • (全く個人的な感想なのですが、)森田恒友さんのパネルに「おばあさんのように柔らかな人柄だった」というような記載があり(詳しくは伏せます)、今回の展示で一番印象に残りました。やはり私は、画家や作者がどういう人か、人柄に惹かれる部分があるようです。

  • 小説の挿絵などの展示で、小説と挿絵の関係を「大夫」と「三味線ひき」の関係に例えている部分もあり、面白いなぁと思いました。

  • (小さめの)各人のパネルに、その方の人となりや、影響を与え合った関係など記載されていて、次世代育成にも力をいれていたことが伝わってきました。「各人主義」でありつつ、同士であり、切磋琢磨し、批評しあって来た関係のように感じられました。現代は、「個人責任」や「分断」が強まりつつようにあるように思う部分があり、こうした人間関係は学ぶべき点も多いように思います。

■最後に

 今回、いつもより文章が長くなってしまいました。冒頭にも書きましたとおり、今まで理解していなかったことが多い故です。
 記事としては、帝国美術院と二科展の部分などは、ばっさり削ってもよいように思いましたが、せっかくなので残しておこうと思います。
 美術団体も、設立趣旨や目指すところにより、団体ごとに作風なども異なるのではないかと思います。そうした「理念」と「実際に美術館に足を運び、絵を見て掴むこと」の間を反復しながら理解を深めて行ければなぁ、と思いました。

 本日の記事は反省点も多いですが、以上です。
 読んで頂き、本当にありがとうございます。


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