足元

【母から見た私】
 うちの子は幼いころから、癇癪もちで、こだわりが強く、それはそれは育てることに苦労した。言うことは聞かないし、どちらかというと人見知りだったので私以外の大人を受け付けられなかった。そんな中、瑞葵を一生懸命に愛して、たくさんの経験をさせながら、一生懸命に育てた。それなのに、何だか思うような子には育ってくれなかった。危なっかしい大人になっている。

【私から見た家庭】
 団地に住んでいたので、そこでできた同年代のお友達とまるで暴走族のように広い敷地内を自転車で暴走するなど、好き勝手に生きていた。一方で両親喧嘩が日常で、いつも心のどこかで不安を感じていた。いつものように両親が激しく喧嘩をしており、私は何も気にせずに外で友達と遊んでいた。ただいま。と家の扉を開けると、そこに両親の姿はなかった。

【駐輪場で・・・】
 日常的に離婚するならどっちについていく?と問われていたこともあり私を置いて二人は出ていった。私は捨てられたのだと思い、団地の駐輪場で大泣きすることしかできなかった。
大泣きしながらおもらししてしまい、たまたま気が付いてくださった近所の方が助けてくださった。そして、なんと両親は普通に外出していただけだったというオチ。もうあまり覚えてはいないが、両親は心底私に謝ってくれたのではないかと思う。この文章を書きながら、当時の気持ちが蘇り、駐輪場で大泣きしながらおもらしした私のもとへ行って、抱きしめている今の私がいる。

【客観的・俯瞰的にとらえる】
 自分にとってマイナスな記憶は残りやすく、思い出しやすい。だから私は必死になって母の視点から過去を見つめ、客観的・俯瞰的に世界を捉えようとしている。母も実の父も私を愛していた。たくさんの経験をさせてくれた。高校も大学も私立の学校に通わせてくれた。高校生の頃なんかは硬式テニス部で歌とは無縁でむしろ下手くそなぐらいだったのに声楽をやりたい。と急に言い出した私の意思を何だかんだ尊重してくれた。声楽で目立った実績はないが、コンクールで一度だけ全国大会にまでコマを進めることができたり、卒業試験で成績優秀者に選ばれたり、また、自分よりはるかに実力のある方々と演奏会を自主企画して成功させたことは、私の中でのちょっとした自信になると同時に、死ぬまで歌を続けよう。という思いに繋がっている。

【これから】
 私は両親にも感謝しているし、与えられた環境で精一杯努力した私にも感謝している。ここ最近、自責も、他責も辞めてみることを心掛けている。強いて言うならば、育ちに傷を抱え、痛みを持ちながらほとんど一人で私を育てなければならなかった環境が適切ではなかったのだと私は思う。母も一被害者だったのだ。そんな中、生んでくれて、育ててくれて、見守ってくれてありがとう。私のエネルギーがたまった時、母の痛みに徹底的に寄り添いたいなと思っている。
 核家族化が進んでいるからこそ、子どもを、社会全体で育て、一人でも多くの人間が子どもや保護者を取り巻く問題を自分事として捉えることができるような世の中を作りたい。
 今の私の知識と経験では難しいためこれからは自分と対話して、たくさんの人の痛みに寄り添い、本音で対話しながら地道にコツコツと歩んでいきたいと思う。
 最近「上を見ながら階段を、登れないこともないけど、足元を見ながら階段を上ることもできるよ」と、ある尊敬している人に言われて物凄く腑に落ちた。私は壮大な夢を掲げその夢に向かって走り続け、空回りしてきた。そんな私もちょっとドジで面白いけど足元をしっかりと固めていきたいと思う。

【最後に】
この文章は自分の為に書きました。それなのにここまで読んでくれた貴方に感謝します。ありがとう。ある時期を境に活字を読めなくなったが、綴ることはできるのだなあ・・・不思議なものだ。


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