小説・坂本弁護士一家殺害事件 【残酷な描写が含まれるのでご注意ください】

<前口上>

秋になり、涼しくなると、オウム真理教と、坂本堤弁護士一家殺害事件のことを思い出す。マスコミが回想番組を流すからでもあるが、この事件が秋という季節と結びついているからでもある。

坂本弁護士一家が殺されたのは、1989年の「文化の日」だった(正確には11月4日の未明)。その日が祝日であったことが、この事件のポイントの1つである。

オウムの実行犯たちは、弁護士事務所から帰宅する坂本弁護士を拉致しようと、3日の昼間から弁護士の自宅近くに待機していた。

しかし、いつまで待っても弁護士は帰宅しない。あきらめかけたところで、若い信者が「今日は祝日だから、家にずっといるのではないでしょうか」と言った。他の信者たちは、出家して世間から遠ざかっていたので、11月3日が祝日であることを忘れていたのだ。

(11月3日がなぜ「文化の日」で祝日か、由来がわかりにくく、一般人でも忘れがちな祝日ではある)

もし、その日がたまたま祝日でなければ、帰宅中の弁護士ひとりが拉致されただろうが、上のようないきさつがあったため、家族全員が被害に遭うことになる。

その夜、弁護士宅の玄関の鍵がかけられていなかったのも、大きな不運だった。運命の日に、坂本家がなぜ戸締りを忘れたのかは、永遠の謎である。

家族が消えて数日たっても、秋の行楽シーズンだから、祝日をからめて家族旅行に行ったのではないか、と周囲は考えた。だが、弁護士宅を訪れた弁護士の母親は「事件」を直感した。この季節にもかかわらず、子供のコートが家に置かれたままだったからだ。

統一教会の問題で、ジャーナリストと弁護士が団体を追及するのを見ると、私はどうしても坂本弁護士事件を思い出す。

そのことは、数日前に書いた。

細かい事実を確かめるため、オウム真理教事件を題材にした、ほぼ1年前に書いた小説「1989年のアウトポスト」を読み返してみた。

自分で書いたものだが、自分でもかなり忘れている。

「1989年のアウトポスト」は、事実を元にしているが、登場人物のキャラクターを含め、全体に創作を含んだフィクションだ。

それでも、できる限りの文献、裁判記録を読んで、重要な場面は事実に近く再構成するよう努めた。

坂本弁護士事件をモデルにした場面は、最も執筆が辛く、いちばん後回しになった。裁判記録で、その殺害の凄惨さに打ちのめされたからだ。再読して、自分でも思い出深かった。

前述のとおり、あくまでフィクションで、名前やロケーションなどはわざと変えている(坂本は釜本に、麻原は浅蔵に変えた)が、死者への敬意は失わなかったつもりである。

事件が忘れられないように、改めて哀悼の意を込めて、坂本弁護士一家殺害事件を「再現」した部分を、以下に転載します。


以下、「1989年のアウトポスト」第3章「ホリデイ」より抜粋


暗くなり、〈格闘家〉はあたりをうかがいながら、釜本の自宅玄関前まで行ってみた。

「釜本司、菊子」という手書きのネームプレートがドアの横に貼ってある。

周囲に人がいないのを確認して、ドアのノブを回すと、なんと鍵がかかっていない。

そのまま駐車場まで戻って、バンの中の男たちと打ち合わせた。

「鍵がかかっていない。たぶん弁護士は中にいる。今夜、決行しよう」

男たちがうなずく。

「近所が寝静まってからだ。夜中の3時にしよう。それまで交代で仮眠だ。食糧は車にあるのを勝手に食ってくれ。トイレは駅のを使え。なるべく目立たないようにな」

男たちは無言でうなずき、仮眠の順番を決めはじめた。

打ち合わせと言っても、それだけだ。

〈格闘家〉は、もう1台の車にいる〈ドクトル〉と若い信者にも同じことを伝えた。

「決行のこと、尊師にはだれが伝えますか」

と〈ドクトル〉が聞くので、

「私が伝えます」

と〈格闘家〉が答えると、「わかりました」と〈ドクトル〉は言った。

これは私が尊師から命じられた修行だ、私が報告するのは当たり前ではないか、と〈格闘家〉は思う。

「車の時計をお前が見ていて、お前が午前3時にみんなを起こしてくれ」

と、いちばん若い信者に命じた。

〈格闘家〉は駅まで行き、公衆電話から、本部の浅蔵の直通電話にかけた。夜の9時を過ぎていたが、浅蔵はすぐに出た。

「今夜、釜本の家で決行します。釜本が本当にいるのかわかりませんし、家の中は家族だけか、それとも、親戚や友人が来ているのか、わかりませんが、とにかく中に入って判断します」

「わかった。結果は明日、報告してくれ」

とだけ浅蔵は言って、電話は切れた。

計画はいつも大雑把だが、浅蔵の法力に守られているので、駅から駐車場に戻る〈格闘家〉に不安はない。

どうせみんな、こまかく言ってもすぐ忘れる。出家信者はサラリーマンではない。合理的に動かない。だが、修行だから、その都度、命じられたことは黙々とやる。

浅蔵が「血が出るのはよくない」というので、絞殺か毒殺と決まっている。そのことは、みんな知っている。だから、毒物以外の武器もいらない。

あとは、音を立てないことだ。

家に入ったら、まず自分が弁護士に襲いかかり、喉を潰して声を出せないようにする。それだけを決めている。

駐車場に戻り、様子を見にアパートに近づくと、釜本の家の窓から光が消えていた。就寝したのだろう。

〈格闘家〉も車の座席に身を沈めると、早くも眠気が襲ってきた。

弁護士を殺って、それで終わりではない。尊師はまだ日々マンデーの巻上をいちばん気にしている。選挙であいつが邪魔になるとお考えだ。これからも監視を続けるよう言われている。

巻上を殺るにはどうすればいいか——それを考えはじめたところで〈格闘家〉は眠りに落ちた。


「時間ですよ」

若い信者の声で〈格闘家〉は目が覚めた。

他の男たちも、ももぞもぞと起き上がった。

6人の男たちは暗闇の中、弁護士のアパートに向かった。

「いいな、音を立てるな」

それだけを〈格闘家〉は声をひそめて皆に言った。

玄関のドアを開け、家のなかに入ると、狭い台所とダイニングテーブルがあり、その向こうに戸が閉まっている。

〈格闘家〉が戸を開くと、6畳くらいの和室に、黄色い豆電球だけに照らされ、家族3人が布団で寝ているのが見えた。

手前に寝ている弁護士が、気配に気づいて目を開いたと見えたので、〈格闘家〉は素早く弁護士の上体に馬乗りになり、その喉に鋭い手刀を放った。

それを合図に、全員が弁護士の家族に襲いかかった。

横に寝ている弁護士の妻、菊子にも2人の男が飛びかかり、1人が首に手をかけ、1人が足を押さえている。

弁護士の足を1人の男が押さえようとしたが、抵抗が激しく、男は弁護士に蹴られて戸のほうまで飛んで行った。

そこに立っていた〈ドクトル〉に、弁護士の足を押さえるよう、〈格闘家〉は目で促した。それくらいなら指紋は残るまい。

そして〈格闘家〉は、弁護士の首を肘で圧迫し、一気に息の根を止めようとする。

弁護士の足を押さえた〈ドクトル〉の横では、若い信者が、塩化カリウムの入った注射器を弁護士の足に刺そうとしていた。

〈格闘家〉が気になるのは、妻の菊子と、その横でまだ目を覚ましていない子どもだ。

菊子の首を締めている男の手際が悪い。首の締め方が甘い。

「何? 助けて。命だけは」

と菊子は錯乱した声をあげはじめた。

菊子の首を締めている男に、〈格闘家〉は、こうするんだ、というふうに、弁護士の首を圧迫している自らの技を見せつける。

菊子が声を出しはじめたので、それを止めようと、もう1人の男が菊子の腹を力いっぱい蹴りはじめた。

そのとき、子どもが目を覚まして泣き出した。1歳くらいの男の子のようだ。

菊子の足を押さえていた男は、急いでタオルケットで子どもの顔をふさぎ、そのまま垂直に力を加えはじめる。

〈格闘家〉のほうでは、首を圧迫され続けた弁護士が、鼻から血を吹き出しはじめた。

(ああ、血が出ちゃったな。布団ごと処分するしかないな)

と〈格闘家〉は思う。

もうほとんど息がない弁護士の足や腹に、若い信者がデタラメに注射器の針を突き立てている。

〈ドクトル〉が低い声で「静脈! 静脈!」と言うのだが、錯乱した信者にはもう聞こえていない。

タオルケットで顔を塞がれた子どもが、激しい痙攣をはじめた。

女からは、声がほとんど出なくなり、動きがとまったようだ。

やれやれ、もうすぐ終わりだ、と〈格闘家〉は思う。あとは、新聞配達が来る前に、家の中をきれいに片付けるだけだ。


菊子は、だれが、何の目的でこんなことをするのか、最後までわからない。

夫の命がすでにないことは横で感じた。

苦悶のなか、

「子どもだけは、お願い」

と、最後になんとか声を絞り出したが、押さえつけられた彼女の視界のなかで、息子がすでに動かなくなっているのを、見ないわけにはいかなかった。

一筋の涙がほおをつたったあと、彼女の目は永遠の暗黒に閉ざされた。




<注1>

11月3日は、1946年に新憲法が発布された日であるが、半年後の施行日である5月3日が憲法記念日となっている。憲法記念日とは別に、なぜ11月に「文化の日」が必要なのか。実は11月3日は、戦前は明治節(天長節)、つまり明治天皇の誕生日で祝日だった。日本の体制側はこの日を「憲法記念日」として残したがったが、GHQが反対したので、今のような形になった、という説がある。

<注2>

この小説の場面だけを見ると、麻原(小説では浅蔵)が「一家皆殺し」を直接司令したように思えないが、実際にはこの夜、その可能性があることを承知して決行を指示している。つまり、麻原には明確な犯意があった。小説の中では、前段の場面で「浅蔵」がその犯意を明確にしているので、ここでは重複を避けただけです。

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