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カルトとしての「出版文化」

日本の特殊な「書物信仰」


経産省の「街の書店救済」のニュースは、まだ反響を呼んでいる。

きのうも書いたように、「街の書店」への人びとの愛着、こだわりがすごいので、恐ろしいほどだと思う。

ここで、きのう書けなかったことも、ついでに書いておきたい。

そういう「街の書店」への声は、あくまで一部の声にすぎない、ということです。


「活字信仰」と「街の書店」信仰は、基本的に結合している。

それをまとめて「書物信仰」と呼ぶならば、わたしは「書物信仰者」たちに囲まれて人生を送ってきた。

なぜなら、出版界や新聞界で働いてきたから。それらの業界は、「書物信仰者」だらけなんですね。


なぜこんなに本好きが多いのか。

前にも書いたけど、基本的には、儒教文化という要素がある。


出版文化は、当然ながら世界中にあるけど、かならずしも「男女平等」ではない。世界的に見れば、読書人の多数派は女です。

経産省の「街の書店救済」に関連して、法哲学者の吉良貴之が、イギリスの若者のあいだで、フィジカルな本が流行っているのを紹介していた。


イギリスのZ世代は「読書はセクシー」とかいって、物理的な本をよく読んで図書館にも通っているとか。若い世代だけでなく、イギリスでは全国的に本が売れていて、地方の「街の書店」から都市の大規模書店、とんがったコンセプト型の書店まで全般的に増えている。
(吉良貴之 3月8日)


しかし、このイギリスでの流行も、もと記事を読むと、女が主流であることがわかります。


読書好きの男女比の国際比較データを見れば、一目瞭然です。


ほとんどの国で「読書好き」は女が多い。

男は、読書よりスポーツをする。読書なんて女々しい趣味だ、と思われる国がほとんどなんです。


そのなかで、男女が同じくらい「読書好き」という例外が少数あって、上記のデータにあるとおり、日本、韓国、中国です。

つまりは、儒教文化圏の国。

儒教は、本を読んで学ぶ宗教ですからね。これらの国では、「本を読んで勉強する」ことで、男は出世できた。だから、男にも読書が奨励された。

「本を読んで勉強する」のが得意なのは、学者以外では、役人や官僚になるような人です。だから、これらの国は、役人や官僚が強い国です。


その結果、これらの国では、社会の上層部に「読書好き」が多い。

出版界とか新聞界も、そういうえりすぐりの「読書好き」が集まる。

政治家、官僚をふくめ、ニュースや情報を発信するのはそういう人たちだから、

「読書はすばらしい」

「街の書店を守れ」

という主張が、非儒教国にくらべて、発信されがちなんですね。


しかし、それはたまたま、本が好きな人が出世し、そういう人たちが社会的発言権をもつから、そういう声が大きく響いている、ということです。

つまり、「読書好き」が過剰代表されている。

社会全体では、それほど本や読書が愛されているわけではない。だからこそ、本屋が減っているわけです。

そこを間違えてはいけない。



迷惑な書店礼賛


わたし自身も、編集者をやったくらいだから、本好きにはちがいない。

子供のころは、リアル書店や図書館で、多くの時間を過ごしていました。

だけど、それは、ネットや、ネット書店がなかったからです。

便利なほうがいいから、リアル書店は減る。それはわたしには自然の理に思える。

わたしは、物理的な本やリアル書店自体に、あまり愛着がないんですね。


わたしは、本が好きなのではなく、本の中身に興味があるわけで。

編集者になったひとつの理由は、興味深い本を書いている著者に、実際に会いたいということがありました。

田舎で本を読んでいるだけでは、著者に会えないですからね。


東京に出て、編集者になったおかげで、著者から直接、興味深い話を聞けた。会いたい人には、ほとんど会えたと思う。それはたしかによかったです。

わたしには、本で学ぼうが、人と会って学ぼうが、同じことだし、本は基本、直接会えない場合の代替手段だと思っているわけです。

また、小説などのフィクションなら、本で読もうが、ドラマで見ようが、基本的に同じだと思っています。


だから、出版界や新聞界にいて、まわりの「書物信仰者」たちに違和感を感じていたし、なじめなかったですね。


出版という、商売をするうえでは、「書物信仰者」たちが邪魔でもありました。


これも前に書きましたが、アマゾンが日本で普及してきたとき、それに敵意をもつ出版人が多かったんですね。

いまでは、「アマゾンでベストセラー1位!」という惹句は広告でよく使われるけど、少なくとも2000年代には、

「街の書店の不利益になるから、ネット書店は存在しないことにする」

という方針の営業も多かったのです。


アマゾンなどのネット書店より、リアル書店で売れるようにするのが、「出版人の良心」みたいに思われていました。

いまやネットの住人になった作家の百田尚樹なんかも、最初はそんなことを言っていたと思う。


わたしは、リアル書店にとくに思い入れがなく、リアルだろうとネットだろうと、読者に利便があればいいと思っていましたから、こうした営業の姿勢には、たいへん悩まされました。

出版社というメーカーが、小売りの問題にそこまで肩入れするのはおかしい、とも思う。小売りまで「支配」しようとするのは、公取的に問題なんじゃないでしょうか。

編集の立場としては、本が読者にスムーズに届いてくれればいい。その手段は、読者が自由にいいほうを選べばいいわけで。

営業部が動かないから、自分でアマゾンに営業したりしてましたね。苦労させられたわけです。

「街の書店を守れ」という声に、そのころの記憶がよみがえったりします。

読者よりも書店が大事なのか、と。そのときの疑問がまた浮かぶのです。


カルトの入口としての本


読書信仰者は、「読書は素晴らしい」と決めつけてるけど、そうとも限らないだろう、とも思う。

出版文化が、宗教の伝播と同時に起こったのは、いまさらいうまでもないことです。

活字印刷の普及も、聖書の普及と同時でした。

その後は基本的に、書物をつうじて、宗教や思想は広がった。

そのなかには、まともなものもあれば、くるったものもありました。


「ネットの情報はフェイクが多く、陰謀論に満ちて危険だ。活字(本)を読め」

という主張が間違っているのは自明ですね。

フェイク情報も陰謀論も、ネットができる前から書物をつうじて広がりました。

「ネットより本を読め」

という主張が危険なのは、「本に書いてあれば何でも信じる」姿勢を助長してしまうからです。

それこそが危険なんです。


わたしはYouTubeで「Dave Fromm Show」というオカルト・陰謀論チャンネルをよく見ています。

面白いし、デイブさんは同世代で、最近脳梗塞で大変だから、応援したいというのもある。

一緒に出ている森泉ALIさんのファンでもありますが、バイリンガルのアリさんの話題はいつも、欧米のオカルト本の紹介から始まります。

つまり、ネットのオカルト番組も、「本」を根拠にオカルトを語るわけです。

ネットのオカルト・陰謀論の出どころは、ほとんど「本」だったりするんですよね。

本が、ネット情報より、確かでも安全でもないのことを示しています。


「本好き」に多い左翼


もちろん、宗教やオカルトを否定したいわけではない。ここでは、ネットも本も同じだと言いたいだけで。


「本」には、確かに栄光の歴史がある。

印刷で大量頒布される、そのメディアとしての力で、人類を啓発し、歴史を推進してきた。

しかし、それは「メディアの力」であって、それが必ずしも「本」である必要はない。


とくに近代において、書物は、狂信や圧政をはねのける、自由思想の器となった。

言論弾圧や検閲とたたかって、書物の力で自由や民主主義を勝ち取った歴史を、決して過小評価するわけではありません。

ただ、そこにも、微妙な「影」があって・・


ぶっちゃけ、出版界や新聞界で出会った「本好き」は、左翼が多いわけです。

これは、もろに冷戦期の「岩波・朝日」文化の影響です。

活字が好きな人ほど、まじめで読書好きな優等生ほど、左翼にかぶれました。

日教組の先生も多かったし。

マルクス主義も「出版宗教」だったのです。


それについては、いつか詳しく書きたいと思っているんですが。

とりあえず、うちの物置には、もう40年以上前から、引っ越しのたびに持ってきているミカン箱があるんですね。

そのミカン箱の中身は、すべて岩波文庫や大月文庫などのマルクス主義文献です。


それは、大学時代、部活の先輩から引き継いだものなんです。

ミカン箱の中身、つまりその左翼本コレクションの持ち主は、先輩の友人でした。

その人は、その大量の左翼本を残して、失踪したんですね。

どうも左翼活動家となって、闇に消えたのです。


わたしがそのミカン箱を捨てがたいのは、最初はそういう人の人生に興味を覚えたからですが(小説「平成の亡霊」に、かれをモデルにした人物を登場させています)、一種の遺品にも思えて、手つかずのまま置いているわけです。


わたしの大学の先輩くらいの世代には、まだそういう人たちがいたんですね。

かれらは、都会に出てきて、本をたくさん読むうちに左翼になり、活動家として生きる選択をしました。

さかのぼるなら、明治以降、社会主義やマルクス主義が入ったころから、そういう人たちはたくさんいました。

もっというなら、20世紀には、世界中に、本を読んで左翼になる人が無数にいました。

岩波書店のランナップは、まだそのころの面影をのこしていますが、冷戦期は、大月文庫版の「資本論」が、田舎の「街の書店」にも置いてあったものです。


ここでも、明治期や20世紀の社会主義者を否定するわけではなりません。

かれらの多くは、時代の先覚者たちでした。

しかし、20世紀の結末をへた以上は、共産主義、マルクス主義の生んだ災禍を考えないわけにいきません。


昨日も書いたように、いまだに日本の出版界は、冷戦中と変わらない。

日本の文化的文脈のなかでは、いまだに読書文化と左翼文化は近縁だと感じています。

そのため、大学にも、新聞・出版界にも、左翼が多い。

その「カルト性」は、無視できないわけです。


「人」より「本」を信じる危険


その左翼性の危険とともに、前述の「儒教文化」特有の危険もあります。

「本好き」が多い儒教文化圏は、同時に、いわゆる長幼の序で、「師弟」のあいだに距離がある文化でもあります。



つまり、日本や韓国は、他の文化圏にくらべ、先輩や先生、親や目上の人に、気楽に相談できない文化なんですね。

だから、身近な人よりも、「本」を信じてしまう危険が高まる。

そして、本を信じることで、身近な世界を「裏切る」可能性が出てくる。

日本の近代は「親不孝」で出来ている、と言った人がいたけれど、たしかに読書は、地域の仲間や家族を離れて、非伝統的な生き方を選ばせる契機になる。


わたしの田舎なんかでは、

「子供に本を読ませるな。親不孝になるぞ」

みたいなことと言っている年寄りが、まだいました。

それは、ある意味、正しいわけです。


もちろん、本を読んで田舎を捨てたり、親不孝したり、左翼なったりする自由はある。

わたしは、それが悪いと言いたいわけではなく、「読書は素晴らしい」とはいちがいに言えないぞ、と言いたいわけです。


佐野真一というノンフィクションライターは、一時あんなに脚光を浴びたのに、いろいろあって失墜してしまった。

でも、かれの『誰が「本」を殺すのか』には、いまわたしが述べたようなことが書かれていたと記憶します。

つまり、本は恐いものだぞ、気をつけろ、と。




なんだか「街の書店」の話題から離れ、とりとめのない話になってしまいました。

ただ、ネットなどで流通している議論のなかで、欠けていると思われるトピックを、ここではとりあえず書き残してみました。



<参考>












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