見出し画像

学び直しの世界史(#1) バビロン捕囚

世界史とは何か。
それは人類全体のこれまでの歩みのことである。

ことに人類の「古代」といえば、それは我々人類の「劇的な進化」と言っても過言ではない。例えば文字の発明やピラミッドのような建築物などは、人類以外の他の動物には成しえなかったことだ。

あなたが広大な砂漠地帯にポツンと産み落とされたとき、そのような「文字」だとか「ピラミッド」のようなアイディアを思いつくことができただろうか。

昔の人は、すごいことをしたものだ。

僕たちはこんなものをつくろうという発想になるだろうか。(引用:Google Earth

***

世界史の中の日本という国は、わりかしシンプルである。

「日本=日本人」

(日本人とはなんぞやという議論は一度置いておいて…)つまり、日本人の歴史を追いかけていけば、自ずと日本という地域の歴史はだいたい紐解かれていく。これだから、こんがらがることはないのだ。

しかしながら、世界史はより複雑なもので、特に民族がめちゃくちゃ出てくる。しかも現代とは違って「国境」なるものがはっきりとは存在していなかった。だから「ここからここまでが〇〇という民族の場所」というのがいまいちはっきりしないし、時代によって変わるのが常である。その辺を細かくやろうとすると、きっと人生が100年あっても足りない。ゆえに、細かすぎる完璧主義はどこかに置いてくるしかない。

当時の人々も、その地域に住む人々を認識しながら、お互いに曖昧な境界線を意識して生活していたのである。

***

かつて、シリア・パレスチナの地域は陸海の交通の要地であった。ゆえに、色々な地域から人々がやってきて、さまざまな交易のやりとりをしていた。

ずっと昔にはエジプト・ヒッタイトの勢力がその土地を支配していた。しかしそこに紀元前13世紀ごろに「海の民」とよばれる系統不明の集団がやってくると、そのエジプト・ヒッタイトの勢力は弱くなっていった。そんでもって、その地域に新たに民族がやってきたわけだ。

一つはアラム人
紀元前12世紀頃からダマスカスを拠点とし、内陸年を繋いだ中継貿易をおこなった。アラム語というのがあり、それは当時でいう国際商業言語とされ、これまでの楔形文字に代わって広く使用された。

二つ目はフェニキア人
こちらはシドン・ティルスという地中海沿岸の都市にて地中海貿易を行なった。こちらも独自のフェニキア文字というものを使用するようになり、これがゆくゆくは現在使われているアルファベットになる。

「サイダー」という美味しそうな名前が、かつての「シドン」の街。
その東にダマスカスが見える。どちらも人々の交流の土地であった。

そして三つ目がヘブライ人である。
もともと遊牧民であったが、紀元前15世紀頃にパレスチナに移住。その一部はエジプトの方に行って住んでいたが、あまりにも過酷だったようで紀元前13世紀にはパレスチナのヘブライ人に合流した。統一王国を持っったのち、紀元前10世紀頃には隆盛をみせた。そんでもって、北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂した。

ティルス(フェニキア人)とダマスカス(アラム人)の住処の南方に王国を築いた。
ユダ王国のメインとなる拠点は、かの有名なイェルサレムである。(引用:Wikipedia

立派な王国ではあったが、良い時代がいつまでも続くものでもない。
時代が進むとアッシリアという強い勢力が出てきて、まず最初に北にあるイスラエル王国を滅亡させた(紀元前722年)。

このアッシリアという国は強かった。勢力図を見れば一目瞭然である。

濃い緑が前824年時点でのアッシリア。この時点でダマスカスを支配下に置いている。
薄緑が前671年時点でのアッシリアで、その勢力がエジプトのナイル川や紅海にまで及んでいる。
「Judah」がユダ王国であるが、この時点でまだ滅びずに残っていることがわかる。
(引用:Wikipedia

アッシリアが勢力をのばしてきた時点ではユダ王国はまだ存在していたのだが、今度は新バビロニアという国が征服してきた。この新バビロニアだが、アッシリアの崩壊後にできた国である。アッシリアが勢力を拡大後に崩壊して四つの国に分裂するのだが、そのうちの一つが新バビロニアである。

ユダ王国(ヘブライ人)がこの新バビロニアに征服されたとき(前586年)、住民の多くは新バビロニアの首都バビロンに連れて行かれた。いわゆる「バビロン捕囚」というもので、要は強制連行である。

戦火のユダ王国をあとにして、バビロンに連れて行かれるヘブライ人たち。
(引用:Wikipedia
ついに死守していたであろうイェルサレムを追われたヘブライ人たちは、
東のバビロンへと強制連行されるのであった。(引用:世界史の窓

実はこの強制連行という悲しい歴史が、ヘブライ人の思想を変えていく。
やはり過酷な状況下に置かれたとき、人間は何かを信じなくては前を向いて生きてはいけないのだろう。ヘブライ人は唯一神ヤハウェを信仰していたが、この信仰が強まっていく。自分たちが神から選ばれたものであるという「選民思想」や、救世主(メシア)が現れるという考えを彼らは強く持ち続けた。

その後およそ50年の月日が経つ頃、ようやくへブラ人たちはバビロンから解放されてイェルサレムに帰ってくる。するとイェルサレムにヤハウェの神殿をつくり、ユダヤ教を確立した。こうしてユダヤ教を信じるものたちを、ユダヤ人と呼んでいるわけである。

バビロン捕囚後に築いたとされるヤハウェの神殿(第二神殿)。
(引用:Wikipedia

***

シリア・パレスチナの地域では、こうも昔から多くの民族が興亡を繰り返してきた。それはなぜであろうか。

個人的な意見としては、地理的な要因が大きいのではないかとかんがえる。

シリア・パレスチナ地域は、エジプト文明・メソポタミア文明・地中海文明を結ぶところに位置している。これらの文明たちが勢力を拡大していったときに必ずといっていいほどぶつかる地点が、シリア・パレスチナ地域だ。海もあり、陸もあり、商業的には恵まれている地域といっても良いかもしれない。だが、場所がいいがゆえに、同時に争いも絶えない事実もこの歴史から見えてくる。

時代が進んだ今でも、この地域では争いが続いている。現代の問題は、その地理的要因のみならず、宗教や民族の話も出てくる。これからこの地域はずっと複雑になってくるのだが、それ以前から興亡の激しさがあったということは頭の片隅に置いておいても良いのではないだろうか。

2024.05.06
書きかけの手帖

この記事が参加している募集

最近の学び

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?