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ちょっと先のことを楽しみに生きるだけ

希死念慮と聞くと、重い話って思いますか?しっかり病んだことがある方でないと身近には感じられないかもしれませんね。

私は高校生の時特に、四六時中死にたいしか考えていませんでした。だからと言って死ねる勇気もない。ありきたりだと思いますが、死にたいけど死ねない、という狭間でギリギリ生きていたんです。

今回は、セツナの相談室#1の動画を踏まえて、生きていく上で私が考えていることをお話ししようと思います!とても抽象的かもしれませんが、お付き合いくださいませ。

病んでいた頃のお話

本格的に病み始めた高校2年の秋冬くらいに、友達と話すことが無理になりました。今考えるとあり得ないんですが、会話自体は楽しいのに自己嫌悪に苛まれたり、すぐにイラついたりしてしまって心臓が真っ黒に染まっていくんです。厨二病みたいですね。

楽しいと感じているのに辛くなってしまうという矛盾を頭で理解できず、友達と話すということから逃げるようになりました。高校のパソコン室に毎朝逃げ隠れて、休み時間は机に伏せて寝る。隠キャ極まりない行動ですが、メンタル的にそうせざるを得なかったんです。

部活内の最低限のつながりは保っていたので、ぼっちになることはありませんでしたが、この時の精神状態は本当にひどくて、でも会話をしたくないから誰に相談することもできずに逃げるように音楽と勉強と小説に没頭していました

現実逃避をしていても、心臓は痛いまま(痛覚ないとかそういう話ではないですよ笑)。その状態が何ヶ月も続いて、考えるところの行き先は「こんなに生きるのが辛いなら死んでしまいたい」。そうして私は希死念慮の塊となってしまいました。

当時の私は家に帰りたくない、とは思っていましたが、親の過干渉も暴言も全て諦めて受け入れていたので、自分が病んだ原因が親だとは思っていませんでした。今思い返すと明らかに親なんですが。それに気づいていなかったんです。

勝手に自分で病んでいるだけだと思っていた。だからこそ余計辛かったんです。

一度希死念慮を抱えてしまうと、すぐに死にたいと思うようになります。心臓が痛むハードルが下がるんですよね。結果、私はいつ死んでもいいと思うようになりました。

病んでいる状態からある程度脱した今でも、別に自分の命が尊いものだとは微塵も感じていません。別に今死んでも後悔はしないでしょう。それは満足に生きている、というのとは異なり、ただ生きるのが面倒なだけです。

生に執着がない。マシュマロで送っていただいた人生相談に書いてあったこの言葉こそ、まさに自分の状態を表しているものに他ならなかったわけです。

執着なんてしなくていい

そんな状態の私が今なぜ生きているのか。動画内でも話しましたが、私は「ちょっとずつ生きてみよう」を重ね続けているだけなんです。まだ読みたい面白い「なろう」の作品があるかもしれない、好きなアーティストがこの後曲を出すらしい、そういうほんの小さな楽しみで、明日まで生きるか…、来週まで生きるか…を続けてなんとか生きている。

希望でキラキラしている人生を送っているわけではない私が人生相談など烏滸がましいかもしれませんが、生きるのが大変だと思っている人は、無理に生きることに執着なんてせずに、少しずつ生きようを続けるだけでいいんだと思うんです。思い詰めて死にたくなってしまうよりよほど心持ちが楽になるはずです。

人生設計なんて心に余裕があって、未来を見据えて希望を持てる人がすればいい。生きることに執着できない状態なら、とりあえずで生きていくのでも十分ですよね。どんなに来ないでって願っても夜は明けてしまうんですから。なんて、自分に言い聞かせる意図も含めて、今回は少し重めの内容になってしまいましたが、ぜひ動画本編もご覧ください!

<今週のセツナ>

最近、私は母親から受けた暴言の数々とその辛さを少しずつ忘れているような気がします。前を向くためには忘れるのもいいのかもしれませんが、私は子どもの頃感じる辛さというものを理解できる存在でありたいとも思っているので、忘れないように思い出さないといけない、と思ってしまうんですよね。

どうするのが最適解なんでしょう。暗い感情を思い出すのは精神的に良くないことなんでしょうかね、そんな疑問を昨日抱いたので、ここに書き留めておきます。

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