見出し画像

ボストン 今昔

 ボストンのローガン空港に降り立ったとき、全市はすっぽり雪のベールでおおわれていた。ターミナルCでスーツケースを受け取り、地下鉄でボストン南駅に向かおうとしたが、前日の大雪で地下鉄は運休とかで市内に入る手段がないのかなと困惑したが、幸いシャトルバスがあったので、ボストン南駅までたどり着くことができた。
 
 中心駅であるボストン南駅からホテルまでは交通機関がマヒしていて、どんな手段があるか見当がつかなかった。そこでiPadの地図を開いてホテルを確かめたところ、徒歩で行ってもそれ程遠くではないと感じたので、小山を越えてホテルに向かった。大雪が去った次の日とはいえ、道路には雪がたくさん残っていたところを大きなショルダーバックを肩にかけ、雪に埋もれそうなスーツケースを転がして傾斜があり、階段がある道を、雪に足を取られながら歩くのは苦行に近いものだった。


雪のボストンコモン

 ボストン南駅から小山の方へ向かう大通りを歩くと、この地の歴史が刻まれているボストン・コモンが交差点を挟んで見えてくる。ボストン・コモンは約20haの広い公園で、1630年にピューリタン(清教徒)が建設したボストン市の中心部に位置している。ピューリタンがこの地に入植4年後の1634年に共有地として購入して当初放牧地として利用されたが、後に公園に転用されたので、アメリカではじめての公園となっている。

 ボストンへ来て最初の歴史的サイトであったが、大雪のせいで屹立している樹木以外すっぽり雪に包まれていた。観光シーズンには、ボストン・コモンはアメリカ独立の揺籃地を巡るフリーダム・トレイルの起点になるところだ。ここから道路に赤い太線が塗られているところをたどっていけば、独立関係の歴史的サイトを見逃すことなく周れるようになっている。残念ながら今回は赤線が大雪によって分断され、後追いできなかった。広大無辺に近いアメリカで、徒歩で歴史的サイトを周れる都市はボストンくらいなものだ。それくらいボストン旧市街は徒歩で周れる小さな街である。

フリーダム・トレイル起点

 ボストンの地形は起伏にとんでいる。市街の周囲は海で囲まれているし、ちょっとした小高い山もある。もともとボストンは島であったが、砂の堆積で大陸とつながる部分ができ半島peninsulaになっていたころにボストンへの入植活動が始まった。この半島は先住民が呼んでいた名称を英語風にしてショーマット半島と呼ばれた。不便そうに見える場所にどうして町をつくったかといえば、それは単純に言えば防衛上最適地だったからだ。

 ピューリタンがボストンなど現在ニューイングランドと呼ばれる地域に入植する際には周囲にはたくさんの先住民がいた。ボストンが属する州はマサチューセッツ州だが、州名の由来は従来その地域に住んでいた先住民の部族名からきている。周囲には先住民の部族が多く住んでいる状況の中で、少数で入植するのであるから、少人数でも他からの攻撃に耐えることができる場所となると、当時最適の場所はショーマット半島だった。半島の周囲は海に囲まれていて万一先住民の小舟による攻撃があっても、充分防衛できただろうし、半島の大陸への付け根(ネック)は非常に狭く防御柵や防御塀を設けて、その一か所を防衛するだけで安全を確保できたし、小高い山からは遠くを見わたせ攻撃者の動向が一望に見わたせたからである。


 旧ボストン市街はまわりに堀を巡らせた山城のような地形になっていて、砦ような人工の防御壁を必要としなかった。アメリカで最初に植民が行われたイギリスの植民地は1607年に始まったヴァージニアであるが、ボストンとは状況がまったく違っていた。

 ヴァージニアVirginiaという地名は当時の国王エリザベス1世に因んで、探検家のウォルター・ローリーが名付けている。入植する土地が誰の手も入っていない処女地であることと、女王が夫を持たない処女(ヴァージン)であることをかけてこの土地を女王に捧げたのである。ヴァージニアの本格的植民は1607年に始まる。ボストンと同じように大きな河岸に植民地をつくるために当時の王ジェームズ1世に因むジェームズ川を遡り、適地と見つけたのが、一見島に見える中州だった。ジェームズ川を天然の堀のように使うことができたが、平地であったので防衛のために砦を造っている。その砦は三角形にして、どこから攻撃されても死角ができないようにしたが、規模も小さくこじんまりとしていた。

ジェームズとバック川の中州にジェームズタウンがある

 

砦になっているジェームズタウン

 この小さいサイトがジェームズ・タウンと呼ばれた北アメリカ最初のイギリス植民地である。この地の植民団とその指導者ジョン・スミスと先住民ポウハタン族の交流によって、この植民活動の初期食糧調達などが円滑に行われた。スミスと酋長の娘ポカホンタスのエピソードの真偽はともかくとして、ヴァージニアにおける植民は多くの困難を乗り越えることにより、商品作物タバコの栽培にたどり着きヴァージニア植民地経済の主軸に成長していく。後にポカホンタスはアメリカインディアンとして初めてイギリスを訪れて、タバコの宣伝に尽力している。ディズニー長編アニメ「ポカホンタス」(1994)は植民初期のスミスとポカホンタスとの幻想的な物語になっている。

 

 ポウハタンという部族名は日本とは全く関係がないようだが、1854年の黒船来航と関係がある。ペリーが率いる7隻の艦隊のうち、外輪蒸気フリゲート艦1隻の名称がポウハタン号であった。しかも東京湾に入ってから旗艦となったので、のちに下田港で吉田松陰と金子重之助が密航を企てて、黒船にこぎ寄せたのが旗艦ポウハタン号だった。この企ては乗船拒否にあい失敗したが、アメリカ側が吉田松陰が何たる者かをよく知っていたら乗船を認めたかもしれない。

 われわれがボストンと言及するとき、該当する都市はアメリカにある都市だが、メトロポリス(母なる町)がイングランド(イギリス)にある。この都市出身者がアメリカに植民したとき出身都市の名前を付けたのだが、アメリカのボストンの方が有名になってしまった例である。アメリカの地名には「新」が付いたニューイングランド、ニューヨーク、ヌーベル・ウェイ(フランス語)、ノヴァ・スコシア(ラテン語)などで新規であると分かりやすいものもあるが、本国の都市とまったく同じ都市名を名乗る都市も多く、ボストンもアメリカには何か所かある。同じ新開地である北海道には、本土の地名に「新」という字を冠して地名としているところはないようだ。伊達市は宮城県にもあるが、北海道の同じ市は郡名か藩名から使われているものであり、その他同じ名前を持つ都市は若干ある。北海道で最も多いのはアイヌの人たちが呼んだ地名に漢字を当てはめたもので、代表的なのは「札幌」だろう。ただしもとになったアイヌ語は諸説あるようだ。アメリカでは先住民の呼び名が地名、都市名になったものもあるが北海道よりも割合としては少ないような感覚だ。

 1630年にピューリタンがチャールズ川河口に入植地を定める際にベースにしたのがボストンの対岸にあったチャールズタウンであった。ヴァージニアと同じように河川名と町名が同じなのは当時のイギリス王チャールズ1世にちなんで付けられたからだ。このチャールズ一世はピューリタン革命当時の王であり、後に処刑されたために、一時スチュアート朝は断絶している。

 チャールズタウンはボストンより早く植民活動が始まっている。1624年にマサチューセッツ湾植民地(Massachusetts Bay Colony)の本部が置かれ、植民のための準備が始められた。この町はボストンより小さい半島で大陸部との接続部分もネック(neck 首)と呼ばれていた。現在のチャールズタウンは埋め立てにより半島の面影は全くなく大陸の一部としか見えない。

  1630年、新たに700人のピューリタン植民団がニューイングランドに到着したとき、最初の候補地セーラムは大量の移民が入植するには相応しくないとして周辺を探査して、チャールズタウンを本拠地にしようとしたが水供給の絶対量が足りないということから、対岸のショーマット半島とその他6か所に分散して入植した。植民地選定の最重要条件は先住民から攻撃されたときに防御できる場所があるということだ。ボストンの場合、その条件をクリアしたが、植民直後伝染病その他の原因で200人の入植者を失い、翌春には80人の脱落者がイングランドに引き上げていった。セーラム以外に植民するところを探したので、内なる疫病・食糧難、外なる先住民の脅威という厳しい環境に直面した中で植民することは植民者を苦しめたに違いない。

 入植一年目、ヴァージニアのジェームズタウンでもボストンやその他の植民地でも冬を越すのが大きなハードルになった。植民する場所を決めるのに遅れたために種を植える時期も遅れてしまい収穫が充分でなかったり、イングランドから持ち込んだ穀物の種がアメリカの土地に合わずに収穫が得られずに冬を越せない状況に追い込まれている場合もあった。このときに先住民がトウモロコシをはじめとする食糧を植民者に与えたというエピソードからサンクスギビングディthanksgiving day=収穫物を与えられて感謝する日(感謝祭)が始まったといわれるが、先住民からなのか、神からなのかという問題がある。最初のころは先住民と植民者は少なからず友好な関係があったからそんなエピソードも生まれる余地もあったが年を経るごとに、植民者による土地の収奪や生活圏の侵害により敵対関係が生まれていき、先住民を殲滅する方向に向かっていったから先住民の慈悲の施しは絵空事になっていっただろう。

 先住民はインディアンIndianと呼ばれていたが誤用である。コロンブスがアメリカを発見したとき、西回りでインドIndiaに到達したと勘違いしたので遭遇した人たちをインディオIndioと呼んだので定着してしまう。インディオはスペイン語で「インド人」の意味だから、アメリカの先住民に当てはめることはムリだった。この誤用が定着し、英国のアメリカ植民地でも先住民をインディアンIndianとよんだ。20世紀に入ってインド人が欧米人と同じ語族に属する祖先が共通な同胞であったことが証明されるわけだが、当時はインド人でも野蛮人と見なされていたし、アメリカ先住民は人種的にはモンゴロイドに属していたわけだから、ヨーロッパ人から見れば下等動物で人間扱いしなくてもよい対象だった。北アメリカに住んでいたモンゴロイドは肌の色が赤黒く鼻筋がとおり高いのに対して、アジアのモンゴロイドは肌の色が赤みがかった黄褐色で鼻が高くない。モンゴロイドとは「モンゴル人のように見えるmongoloid」人々という意味だから、全体的に似ているならその人種になる。コーカソイドも白人のカテゴリーに入る人を指すが、この人種も多様性があるから便宜上の分類でしかない。日本における人種の三分類白人、黒人、黄人は肌の色でわけている。黄人だけはなぜか黄色人種と表記されるが、日常語として使われることはない。反対に白人、黒人は普通に日常語として使われるが不思議である。日本人は自分たちの肌の色が黄色であると認めてないから黄人に違和感を持ち使わないのだろうか。


冬のボストン

 前日の大雪の後とはいえ、歩いてホテルへ向かうなか、厳寒のボストンの寒さに心身ともに冷え切っていた。ボストンは札幌とほぼ同じ緯度にある。こんなところの粗末な小屋で、不足する食糧と死の病が襲いかかる不安に苛まれつつ冬を越す人々を想像するとき、雪と寒気で凍えた手足とシンクロして17世紀のボストンにいるような感覚を覚えた  信教の自由を求めて新大陸に渡ってきた人々にとって過酷な試練にちがいなかっただろう。

 目を転じてあたりを見わたすと、道路に沿って低層階のレンガ造りの家並みがつづき、路上駐車した車は車種が分からないほど雪がつもっていた。なかには雪の中から車を掘り出す作業を始める住民もいた。分水嶺を越えて、下りに入るとホテルの全容が見えてきた。目指すホテルはもう直ぐだ。

   When the soft snow was failing      やわらかな雪が降って
          Each roof, became a dome        おのおのの屋根はドームになった
          Then you’ll hear your heart calling    
           そのうちあなたは心からの呼びかけを聞くでしょう             “There’s no place like hotel with a warmth and light ”      
         暖かさと明かりをそなえたホテルに優るところはない
  (Gren Campbell-There’s no place like homeの歌詞を若干替えました)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?