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絵と音楽はコラムに比べて「矛盾していない」事が妬ましくてしょうがない

最近絵が描ける人が羨ましくてしょうがない。

その原因について色々考えたけれど、1つこれだなと思う事があった。

それは絵には矛盾が存在しないという事である。

僕はずっと文字を書いてきている。

けれど、言語化にも絶対的な限界がある。正直。

世の中には「ヤバい」や「エモい」と言うだけの人を言語化できない人間として小馬鹿にするケースがある。

でも、そういう人たちと僕は根本的に同じだと考える。

なぜなら、言葉は口にした時点で矛盾になるからである。

言葉というのは、結局の所脳内物質を仕方なく表現するための道具であって、その人の中にある脳内物質や感情を表現するために”仕方なく”既存の言葉に当てはめる事しかできないのである。

つまり「ヤバい」と「正鵠(せいこく)を射る表現に震えるほど唸った」という言葉は同じだと思う。

もちろん言語化のレベルの単純な質はある。けれども、脳内物質そのままでは無い。脳内物質の中で起きた気持ちと書いた言葉は絶対に矛盾してしまうのである。

絵の場合はそれが無い。絵で表現されていることには矛盾が無い。

見ればわかるし、見た時の脳内物質を完全に共有できる。絵は文字よりも圧倒的に矛盾していないのである。

音楽だってそうで、歌詞が本来の感情伝達の言葉の構成から逸脱しても矛盾しないという利点がある。

支離滅裂な言葉でも歌詞であれば矛盾しない。そしてその言葉の意味を観客が独自に理解する。

僕がもしこのnoteで原口沙輔の歌詞のようなワードを書いたとしよう。もちろん読者諸君は納得しない。なにそれ?こっちに情報が伝わらないんですけど?になる。

けれど、音楽の歌詞は矛盾が矛盾になっていない。

あぁ。妬ましい。僕の文字を書く活動は常に自分の言語化が脳内物質と矛盾している事との戦いで、思っている事と違う言葉にならないようにいかにするかという戦いをしているのに、音楽ではそれが許容されている。

くぅ~と思う。悔しい。妬ましい。

つまりコラムというジャンルは矛盾が許されていないのである。

だから、絵やボカロの歌詞とかを見ながら。ず~~っと良いなぁ・・・と最近は思っていた。

どれだけ言語化を突き詰めても、結局脳内物質との言葉のズレは発生する。

だからこそ、直接理解できる絵が妬ましい。矛盾した文字列が矛盾しない音楽の歌詞の世界が妬ましい。

とはいえ、文字の伝わりっぷりは尋常ではない。脳内物質とのズレをもってしても、感情の伝わりようはやはり凄いのである。

けれども、僕は文字を書くことがわけがわからなくなった時にいつも思う。

そっちは良いよなぁ。絵はさぁ。見ればわかるじゃん。良いなぁ。と思うのである。

まぁ、こんだけ言っといて、書ける時はいっつもコラム最強!って思っとるんですが・・・


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