■本当の履歴書

2024年を迎え、年の初めから能登半島で大規模な地震や火災が起こり途轍もない年明けだ。
そんな年の1月9日に成人式を迎え、大人になることを被災地やそれ以外の人も意識した若い人は特に大勢いたと思う。

そんな中35歳になる年で、僕はまた無職に戻った。
厳密には配達業やヴァイオリンなどで小銭を稼ぎ、実家に借金しながら生活しているのだが、かなりギリギリの生活だ。

時間だけは無限に作れる僕は年末年始の帰省を使って20代から今までをどう思いどう過ごしてきたかをまとめてみることにした。

完全にしくじってる人生だがまとめてみて次の一歩に役立てたいと思って書き始めてみたのだが、こんな人生でも誰かに役立てばいい。

■23歳の時

僕は新卒では就職をしなかった。
就職氷河期もあったが碌でもない学生だった僕には就職でアピールできる事は何も無く。当時人と接するのが少し苦手だった僕に、大勢と仕事して上手くいくイメージなんてなかったし、アルバイトですらいい思い出が少なくこのまま就職しても仲間もできずメンタルを病むのが関の山だと感じていた。
そしてその時は会社に勤めるより憧れの横浜に住む夢があった。海のある街で広く開けた場所も多い。その時はまだ建築が好きで、大桟橋ターミナルの建築でありランドスケープのような姿が好きで、大桟橋に通う日常をやってみたかった。そして横浜トリエンナーレが始まると町中がアート一色に染まる。そんなイベントや街の仕組みを知りたいと思っていた。

大学を卒業して、しばらく1年は実家近くの自転車屋にアルバイトしながら近所の設計事務所でインターンとして働いた。アルバイト先の店長は寡黙で厳しいながらしっかりと仕事をこなし時に従業員を元気づけるために趣味のサバゲーに誘ってくれたり良くして貰った。優しい先輩や厳しい先輩、楽しい先輩も居てすごい大変でミスやトラブルも起こして苦労していたがいい人に囲まれていた。ここを辞めた理由はその店長がいなくなるタイミングで引っ越しのお金も溜まり、いよいよ横浜に行く準備ができたからだった。
インターンの方はちょっと暗く、所長と奥さんがよく喧嘩していた印象が強い。
社員さん達は優しい人が多く、その中でもある男性スタッフの人には良くしてもらい、その人が個人的に請け負ったある仕事にも誘ってもらった。それはその人が通うカフェの改装で天井を壊して広い空間を作るのが目的だった。
そのオーナーがとても気さくで優しい人で、今でもその人を尊敬している。
その人が居るだけで人が集まり事が自然に発生する魔法使いのような人。人が居るだけで誰かの居場所ができていく。カフェそのもののような人だった。その人に会えたのは意味深い出会いだったと今でも思う。

■24歳 横浜に引っ越す

そして24歳。横浜に引っ越して見つけたのは4畳半ぐらいのワンルーム。窓からみなとみらいの観覧車やランドマークタワーが見えるのが決め手だった。
部屋には最低限でかつ気に入った家具を置いた。棚や机は住みながら少ない工具で徐々にDIYで作って行った。ここには今でも住んでいる。

そして翌年に開催を控えた横浜トリエンナーレのボランティア活動に参加しながらアウトドアショップの店員のアルバイトをする生活が始まった。
アウトドアショップの仕事はとても楽しかった。お客さんに声をかけ、他愛無い話からニーズを聞き出したり時には身につけているものから趣向を観察し、提案が通って次々レジに運ばれていく感覚が気持ちよかった。全店で3本指に入る売上を上げた月もいくつかあった。

そして横浜トリエンナーレでは主に土日に活動してPRイベントを自分達で開催したり横浜の様々な場所を巡ったりした。
同年代も居れば高齢の方も居て、誰一人友達の居ない僕にも良くしてくれて飲みに連れて行ってくれたりバースデーパーティも開いてくれた。僕は多分不安や寂しさを紛らせていた。
その小さな芽が父親が居ない僕の奥底にある、父性を求める心に結びつきコンプレックスを生じてしまってもいた。
会期が迫ると活動も活発になり、頻繁に通っていた僕もコアメンバーとして参加するようになる。イベントの中核の人にも顔を覚えて貰えるぐらいになり、ボランティアながら責任が生まれていた。
アルバイトの方もある商品が爆発的なブームを起こして開店前に列ができるほどで忙しかった。そして休日はボランティアの作業に追われて日々休まる事がなかった。
休まらない日々とプレッシャーに潰されて、遂には燃え尽きてしまいついにボランティア活動を飛んだ。夢に見た日の直前で夢が潰れた。作業をしようとすると何も手につかない感覚を今でも覚えている。何故か生活の為のアルバイトには通えた。普段通りにも出来ていたきがする。

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