ジミー・コーリガン〜世界一賢いこども第1巻と休む
今回紹介するのは、クリス・ウェアという米国の漫画家だ。このクリス・ウェアという漫画家は、日本においては海外漫画に興味がある人以外にはあまり知られていない漫画家だと思う。しかし、国際的には、本作品が2003年のアングレーム国際漫画祭で最優秀作品賞に選ばれており、世界的の漫画好きからは人気の漫画家だ(なお、アングレーム国際漫画祭は、Wikipediaによると、「漫画界におけるカンヌ」らしい)。
そんな名作が本作品だ。そして、下記ように本作品の絵柄は非常にポップで、親しみやすく、絵柄だけをみるととても明快なストリー展開で分かりやすいのかなと思ってしまう。
父親との再会シーン
しかし、本作品を読み進めていくとそれが間違いだったことに気がつく。と、その話に行く前に、本作品は色々な試みがされている。そのひとつに物語が始まる前の扉絵だ。
上記を見ていただくとわかるように、いわゆる「漫画の文法」、日本の漫画だろうと、米国のコミックだろうと、フランスのバンド・デシネだろうと、これらを読むことで自然と身につけたそれを、再確認するような記載がある。それだけ、本作品が、「漫画の文法」を意識させられる作品であることを、事前に警告しているようにも読める。
このような前提のもと、本作品を難解にしている理由として、突然の妄想シーンが挿入されることがあげられる。例えば下記の1ページを見て頂きたい。この直前のコマはファーストフード店で店員に悪態つく父のセリフを聞いてる姿が描かれている。その次に、下記のような船に乗っている妄想シーンが挟まる。そして船の妄想が3コマ続いた後に、突如、ハンバーガーのケチャップを確認しているコマに戻る。船の妄想は、赤い夕日のシーンであることから、ハンバーガーのコマとよくモンタージュされている。豪華な姿の妄想シーンと現実のファーストフード店にオッさん2人が語り合う詫びしい姿が対比して強調されているようにも見える。
このように、本作品ではジミー・コーリガンのとりとめのない妄想シーンが随所に自然にはさまってくる。これが俄然、難解に感じるときがあるのだ。
それは、作者の実験的意図から発生しているのかもしれないし、漫画における話者みたいな存在が小説より希薄だからからなのかもしれない。はたまた、映画より、シーンとシーン、つまり、コマとコマがうまくモンタージュしないという漫画メディアの特性から発生しているのかもしれない。
ちなみに本作品は、日本語版は3部作となっている(原書は1巻)。また、2巻以降は今後紹介していきたい。
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