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『夜明けのすべて』と線

終盤に関する言及あり。 東京の地平線はどこ?  スティーヴン・スピルバーグの『フェイブルマンズ』(2022)を観てから、映画の地平線の位置を注視するようになった映画ファンは多いと思われるが、その有無についてはどうだろうか。日本映画、延いては東京映画とは戦後からその地平線を見せないことを特徴としてきた。小津安二郎の『東京物語』(1953)は尾道、東京、熱海を舞台とするが、いくら高い建物に登ろうと東京の地平線の見えなさは尾道、熱海の地平線との差異によって強調される。そうした差

    • 『エイリアン:ロムルス』と籠の中の夢

      ⚠️ネタバレあり⚠️ 鳥籠の中  レイン(ケイリー・スピーニー)は夢を見る。太陽が差す草原にただ一人彼女は腰を下ろしている。その後彼女が目を覚ましたことから、直前の光景が夢であったことを我々は知る。レインにとってその夢とは一体何を意味するのだろうか。使えない物、要するにゴミで溢れた植民地惑星で労働に搾取され続ける彼女にとって、何もない大地は「自由」を意味する。彼女が渇望するものとは、何もない状態であり、物ではない。ただ植民地惑星にはない太陽さえあれば、我々地球人にとって崇

      • 『SUPER HAPPY FOREVER』と幸福のVターン

         正直Uターンでも良いのだが、画面の中で、また画面を通過する形で劇中の登場人物がV字に移動しているのでVターン。五十嵐耕平監督作 『SUPER HAPPY FOREVER』(2024)のVターンに関して指摘したい。 ⚠️ネタバレあり 同じ場所は既に違う場所  人けのない伊豆半島の観光地を友人の宮田(宮田佳典)と訪れた佐野(佐野弘樹)は赤い帽子を探している。どうやらそれは、1ヶ月前に亡くなった佐野の妻、凪(山本奈衣瑠)が5年前、2人が出会ったこの場所で失ったものらしい。特

        • 『ミッシング』/イーストウッドの不在と囚われた捜索者

          ⚠️⚠️本稿は『ミッシング』(2024)に関するネタバレが含まれます。よって、映画を鑑賞の上、読んでいただくことを推奨します⚠️ 序 失踪の不在 𠮷田恵輔の『ミッシング』が、ミステリーものとして特異な作品であることは誰の目からも明らかだ。そのオチこそ驚かれる観客は多いと思うが、比較的衝撃が大きかったのは映画の始まり方だ。  この映画は、ミステリージャンルにおける誘拐・失踪事件を扱いながら、その誘拐・失踪の瞬間が描かれない。犯人探しを観客と共に行うミステリーというジャンルにお

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        『夜明けのすべて』と線

          映画『箱男』による欲望の眼差しと映画の存在理由

          序 ゴダールが監督作『軽蔑』(1963)の冒頭で引用したアンドレ・バザンによる以上のテーゼを思い出したのは石井岳龍の『箱男』(2024)(以下、石井『箱男』)の終盤だった。とはいえ、筆者のこれまでのnoteを読んでいただければ、この呪文が常に筆者の念頭に置かれており、筆者が『軽蔑』の病に伏していることがバレるのは容易いことである。しかし、その呪文を、各ショットを観る上で念頭に置いていたにすぎない私に対して、『箱男』という映画は、まさにその呪文をこそその結論としていたことに驚い

          映画『箱男』による欲望の眼差しと映画の存在理由

          『ツイスター』『ツイスターズ』における欲望・死・映画

           本稿はヤン・デ・ボンによる『ツイスター』(1996)と、その続編であるリー・アイザック・チョンによる『ツイスターズ』(2024)を、竜巻を欲望、死、映画として読み解く試みである。 ※両作のネタバレを含みます。 第一章 『ツイスター』論第一節 死への接近  ヤン・デ・ボンによる『ツイスター』において、主人公たちの欲望とは、竜巻を倒すとか、竜巻から人々を救うとかではなく、竜巻を観測したいというものであった。そのために、彼らは竜巻に近づかなくてはならないのだが、その近さを無

          『ツイスター』『ツイスターズ』における欲望・死・映画

          バスは走り、映画は運動を続ける/『スピード』

           一度動き出したら止まらない。止まった時、それはもはや存在しない。それは生きている間だけ存在し、死を迎えると無となる。それは現実を記録する芸術として、時に死のイメージで語られることもあるが、生き続けるものとして、生の一面をも持つ。ただしその生は、死と表裏一体のものとして現れる。常に死の不安に悩みながら生きる、生きなければならない。不安自体が生なのだ。では、結局死とはその解消に当たるのか。否、生の中にのみ幸福な体験が待ち受ける。そうしたことに改めて気づかせてくれたのがヤン・デ・

          バスは走り、映画は運動を続ける/『スピード』

          『パスト ライブス』のフレームの不在

          終盤に関する言及あり。 フレームの内側で スクリーンのフレームの内側に、対象を囲うもう一つの四角形を作るフレーム内フレーム。セリーヌ・ソンタグの『パスト ライブス』(2023)で多用される「フレーム内フレーム」ショットは圧巻だ。初恋の相手ノラ(グレタ・リー)を想うヘソン(ユ・テオ)にとってフレームとは、離れ去った彼女を写す窓であり、彼らが物理的にも精神的にも離れ離れの世界にあること、また常にノラが去っていく人であることを強調する。ノラにとってフレームは自分自身を囲うものであ

          『パスト ライブス』のフレームの不在

          終末西部劇『オッペンハイマー』

          ジョン・フォードの不在  『ダンケルク』(2017)の海岸が歴史と異なる形で再現されたのと同様に、『オッペンハイマー』におけるロスアラモス国立研究所も独自の形で再現される。何もない荒野に突如現れた木造の都市は国民にも秘められた場所であったが、非常に国民的な場所でもあった。研究施設と同時に研究者家族の生活拠点としての街であるロスアラモスを新参者に案内する際、ロバート・オッペンハイマー(キリアン・マーフィー)は二度酒場があることを強調する。先住民から買ったと言われるその土地は、

          終末西部劇『オッペンハイマー』

          触れ合う主体同士の性愛/精神分析のパロディである『ピアノ・レッスン』は悲劇か?

          ※全て無料でお読みいただけます。最後にご支援の案内があります。  4Kデジタルリマスターによる再上映(2024)を機にこの傑作と向かい合う時、違和感は拭えないままだ。「女性」であるジェーン・カンピオン監督による「女性映画」として、また女性が搾取される映画としてこの『ピアノ・レッスン』(1993)について、「女性」の解放のドラマが安易に読み取られることを懸念している。実際本作から多大なオマージュを受けたセリーヌ・シアマの『燃ゆる女の肖像』(2019)は疑うことなきフェミニズム

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          触れ合う主体同士の性愛/精神分析のパロディである『ピアノ・レッスン』は悲劇か?

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          『プレステージ』による映画(複製装置)史敗北宣言

           本稿ではクリストファー・ノーランの監督術を見出すために彼の傑作である『プレステージ』(2006)を映画史的観点から分析する。第一章は前提として筆者のノーランに対する解釈とその疑問、初期作品の特徴について叙述したものであるため、『プレステージ』の批評のみ興味のある方は第二章から読んでいただいて構わない。なお、『プレステージ』に関してはネタバレとなる終盤を主に扱うため、鑑賞後に読むことをおすすめする。 第一章 クリストファー・ノーランの映画的欲望第一節 「撮る」よりも「創る」

          『プレステージ』による映画(複製装置)史敗北宣言

          フーコーとラカンによる『籠の中の乙女』

           われわれはそこで「異常」な教育を目にする。「今日覚えるのは次の単語です──『海』。革張りのアームチェアのこと。うちの居間にもありますね。例文。” 立ってないで海に座ってゆっくり話しましょう” 」  『籠の中の乙女』で、親たちは決して子どもを外に出さない。子どもと言っても、彼らはもう優に20歳を超えているように見える。外の世界は危険な世界だと教え込み、危険生物「ネコ」への対処として犬の鳴きまねを教える。プールで窒息の危険があるまで息を止めさせて、がんばりに応じてシールを与え、

          フーコーとラカンによる『籠の中の乙女』

          2023年映画ベスト10/「映画は映画である」と告げること。

          ワースト デミアン・チャゼル『バビロン』(2022)  選出した10作は全て『バビロン』への批判として機能している。昨年ゴダールが「よそ(there)」へ旅立った直後に本作を観て、本当に映画が死んでしまうのかと絶望したが、映画について語っておきながら映画ならざるものへの超越を試みて散っていったチャゼルに対し、ノーランとロブ・マーシャルは作品世界の内に映画を留めることを選び、ウェス・アンダーソンもスピルバーグもヴェンダースも北野武も映画が映画にしかなり得ないことを示した。

          2023年映画ベスト10/「映画は映画である」と告げること。

          東京で「見上げる」こと。「まっすぐ見る」こと。/『PERFECT DAYS』

           我々が「小津安二郎的なもの」として連想するのが、静止した身体とすれ違う眼差しであるならばヴィム・ヴェンダースの『PERFECT DAYS』(2023)で──笠智衆が『東京物語』(1953)で演じた役と同じ苗字を持つ──役所広司の身体とは「反小津安二郎的なもの」として、動き続け対象をまじまじと見る身体であるといえる。 「動く」身体と「見る」身体  役所広司の身体は夢という「見る」ことを強いられた睡眠から目覚めるとすぐに布団を畳み、身支度を整え、外の自販機でコーヒーを買い、

          東京で「見上げる」こと。「まっすぐ見る」こと。/『PERFECT DAYS』

          ロブ・マーシャルの無頓着さ/水泳映画としての『リトル・マーメイド』(2023)

           カメラは暴力的に世界に四つの線を引き、線で囲われた枠の中へと無垢な身体を投獄する。ある囚人は、錯乱状態に陥ったように檻の中で動く術しか持たず、ある囚人はそこから脱獄してみせるが、看守たる「目」は、再び彼を投獄する。初期の映画の醍醐味はこうした幽閉空間における身体の自由の制限と彼の自由意志の間に生じる葛藤の運動を観察するブルジョア的窃視にあったわけだが、國民による創生を創生した者によって花が散った頃、囚人は自由を代償にその檻ごと切り刻まれることとなった。今や囚人たちは喜んでそ

          ロブ・マーシャルの無頓着さ/水泳映画としての『リトル・マーメイド』(2023)

          ウェス・アンダーソンの映画史横断旅行

           映画の死を警告した者たちが死して行く現在、その死に抗うために映画の本質を捨て去ろうとする誤ちは多く挙げられる。世界は分断され個人的経験にヒエラルキーが設けられた現代、硬直した物語を楽しむことの価値が揺らぎ始めている。多元宇宙間(マルチバース)の放浪は、物語を個人的経験へと接続する幻想を手助けすることに成功しているが、その接続の過程を彷徨うことしかできないだろう。なぜなら、物語宇宙と我々観客の住む宇宙の境界には断じて破られることのないスクリーンが存在するからである。だからとい

          ウェス・アンダーソンの映画史横断旅行