「かけがえのないもの」休まる+整うという感覚

 カナダで暮らし始めて6年半、確実に向上したのは「セルフケアの意識」だと思う。

 留学を始めた当初、私は結構ボロボロだった。「二十歳のクライシス」と呼んでいるのだが、ホルモンバランスの乱れ、体質の変化、トラウマ級のダメージがのしかかった心の不調等々に日々翻弄されていた。

 例えば、月経不順、月経過多、PMS(月経前症候群)が深刻で、月の半分以上の日常生活に悪影響が出ていた。生理前の頭痛、肩こり、脳貧血、むくみ、倦怠感、過食、吐き気、痛みを伴う肌荒れ、発熱、そして生理痛と慢性的な貧血。生理前後は心にも不調を来し、大きな音が非常に不快になったり、楽しいはずの友人との時間も終始イライラしたり、訳もなく落ち込んだりする。道のど真ん中で急に全てに絶望した気持ちになって号泣したときは「私、ただのやばいヤツじゃん。これはCrazy Womanだわ」と、さすがに俯瞰で見ている自分がいたぐらいだ。白杖を持って道のど真ん中で号泣する女性。「大丈夫?」「あなたのために祈りましょう」と声を欠けられるぐらいならまだいいが(突然祈られるというのもなかなか不思議な感覚ではあったが)、「泣きながらフラフラ歩いている君が心配だったんだ」と言って家まで着いて来ようとする人もいる。人通りの多いところでこちらが気づけばまだいいが、そういう類の人に気づけなかった時のことをかんがえると恐怖でしかない。自分の身を守るためにも、このような症状がある方は早めの治療を!

 忙しい学生生活、バイト、そして友人との時間。着の身着のまま飛び込んだ異国の地で、その頃の私はようやくカナダでの基盤を固め、大事にしたいものもたくさんできていた。健康になってもいいことは何もないと自分の未来を悲観していた二十歳のあの頃とは違い、元気になりたい理由がそこにはあった。だから「ちゃんと体と心を整えよう」と思ったのは、すごく自然なことだったのかもしれない。これは余談だが、誰かが元気になりたいと思う要素を増やす、そのプロセスの何か役に立ちたいという気持ちが、私がソーシャルワークを学ぶルーツだと思う。

 バンクーバー市内のカレッジへの入学が決まり、BC州の医療保険に加入できたのを機に、まず私はカレッジの学生向けのカウンセリングにいった。そして「症状は軽いうつ病っぽいけど、この感じは体から来ているかもしれないから、まず血液検査受けてきて」と言われ、これまた学生向けのクリニックに出向いた。そこで、体の中にはほぼ鉄が貯蓄されていないことを知り「体を整える」ための治療が始まった。

 まず、PMSや月経のトラブルは薬を飲んだら楽になるからと、バースコントロールピルを処方してもらった。日本にいる時から存在自体は知っていたがなんとなくハードルが高く、あんなにささっと出してくれるものなのかと驚いた。それで全ての問題が綺麗さっぱり解決したわけではないが、日常に深刻な影響が出ないぐらいにまで回復した。とても嬉しい。

 そして貧血に関しては、月経量を抑えるだけではどうにもならず、鉄材を飲み始めることに。ここで救われたのは、私は「貧血になったら鉄分豊富な食べ物をいっぱい食べないといけない」という固定概念に縛られていた。しかし、当時体質変化に伴い、動物性のものを体が受け付けなかった。それをドクターに伝えると「食事は無理せず、食べられる時に食べられるものを食べて。足りない文は薬でカバーできるから、食べられないことにストレスを感じなくていい」と言ってくれた。自分の体の状態やライフスタイルに合った治療を提案してくれるドクターに出会えたことは、とても幸運だったと思う。

 カレッジを卒業するまで約3年、私はそのドクターのもとに通い、Baby Stepではあったが体調を整えていった。そして私の場合は、体が元気になるにつれ「軽いうつ秒っぽい」症状は緩和されていった。だから、最初のカウンセラーさんの読みは当たっている、さすがです。そして、今の大学への編入が決まり、バンクーバーを引っ越すタイミングでそのクリニックからは卒業となり、今は薬やサプリを引き続きしようしながら、心の調子が崩れてきたらそれは体が疲れているというマイパターンを念頭に置きつつ、「二十歳のクライシス」を迎える前とほぼ変わらないぐらい日常が送れるようになった。

 大学でソーシャルワークを専攻する関係上、「セルフケア」の重要性を実感として学べたことも大きい。精神的に動じなくなったというか、他人や自分自身の強い感情に持って行かれることもかなり減った。

 それでも、いろいろなことが起こる人生、「セルフケア」のプレッシャーに押しつぶされそうになることもある。自分をケアして守って行くのは自分、それはわかる、とても大事である。でもたぶん私はまだどこか幼くて、もう大人だけど安心できる大人に寄りかかりたくなるし、今でも十分守られているのにもっと守られている実感がほしくなるし、「頑張りすぎたね」「ちょっと休もう」と言って自分の心身のマネージメントをしてくれる人に身を任せたくもなる。だいぶいろいろなことを自分でケアできるようになったが、時々その責任が重い。そして、自分のケアを人に委ねたくなる時の私は、だいたい疲労困憊の状態だ。だから、緊急連絡先というか、自分の限界を超えそうな時のセーフティープランとして、信頼できる人というのはいた方がいい。

 そしてありがたいことに、私には「休まった」「整った」と思える心理的安全性の高い場所ができた。バンクーバーの母と呼んでいる人がいる。彼女はボスニア出身で、難民として30年ほど前にカナダに来た人で、数年前に60歳のバースデーパーティーを盛大にやったからおそらく今は63歳ぐらいで、とにかく素敵な人だ。元々は私がバンクーバーの専門学校で英語教授法の勉強をしていたときの先生だが、今はとても親しくさせてもらっている友人の一人である。

 バンクーバーにいた頃、彼女が主催する「歌の集い」に州に一度参加し、集まった人たちで楽しく歌い、みんなでご飯を食べて、多めに作った食事をいつもお弁当にして持ち帰らせてくれた。ビーガンの彼女が作るご飯は優しい味がして、おなかいっぱい食べても胃に負担がかかることなく、毎回体が元気になった。遠い街に引っ越した今は、日本に帰国する時など、バンクーバーに寄るときはいつも泊めてくれる。美味しいご飯が食べられて、気の向くままにゴロゴロして、私が大好きなアイスクリームが常にあって、朝起きたらアールグレイに蜂蜜とミルクをたっぷり入れた紅茶、夜寝る前にはカモミールに蜂蜜とレモンを入れた私のお気に入りブレンドの紅茶をいただく、完全に甘やかされている。「ここにいる時はそれでいい」と言ってくれる彼女や歌の集いのメンバーたちに、間違いなく私のカナダライフは支えられてきた。

 そして、日常レベルでの小話。これは最近ふと思ったことなのだが、スマホが充電を必要とするように、私にも毎日充電が必要だ。私を充電してくれる場所は、そう、大きなベッドの上。質の良い睡眠を取れた翌日の朝は充電マックスで疲れもリセットされるし、調子が悪くて起き上がれない日も、これまではなんと不毛な時間だとそれだけで憂鬱だったが、今はバッテリーが0%になったスマホを100%にするためには充電時間がかかるのと同じで、私の充電にも時間が必要なんだなぁと思っている。エネルギーチャージが始まる時、すなわちその日の終わりにベッドに潜る時間が、一日の中で一番幸せな瞬間かもしれない。

 最後に、最近青山美智子さんの小説をよく読んでいて『赤と青とエスキース』という作品の中の「これからもずっと続けるために、今は止まる」という箇所にえらく共感した。体が心について行けないとき、もしくは心が現状に着いて行けないとき、休むことが嫌だったり罪悪感だったり不安だったりする。でも、人生の中には休息が必要な時があると思う。だから私は思いっきり休む。カナダに来てからわかった「休まった」「整った」という感覚は、これから生きていく上でとても大切な、無くてはならない「かけがえのないもの」だ。

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