「ワンクッション置く生き方」 感謝の呪縛を掘り下げてみる

 カナダに来て6年が経った。現地の大学で社会福祉を勉強してよかったことの一つは「感謝の呪縛」から自分を解き放つことができたこと。
 これだけ書くと、まるで感謝することを辞めた無礼な人という印象を与えるかもしれない。誤解のないようにいっておくと、私は日々いろいろな人に感謝している。だけどそれは「したいからする」のであって「しなければいけない」という考え方から解放されたということ。恩を売ってくる人と意識的に距離を取るようになったら、すごく生きるのが楽になったという話。
 大学3年生の時、授業の一環でクリップキャンプというドキュメンタリーを見た。これは1970年代のアメリカで、障害者権利条約ができるまでの当事者活動を追った話だ。その中で、障害者団体のリーダーをしていた車椅子の女性がこんなことを言っていた。「車椅子トイレがコミュニティーの中にあることを感謝し続けなければいけない限り、私たちがそのコミュニティーの中で対等になることはない」。
 衝撃だった。ほぼ半世紀も前にはもう、アメリカではこんな考え方があったのかと。そして私は、これまでの自分の生きづらさの根源を一つすくい取れた気がした。
 私が今学んでいるソーシャルワークは、困っている人の数が減らない社会の構造に焦点を当てている。そこで重要になってくるのがパワーバランスだ。
 例えば、障害者は健常者に比べて社会的バリアが多い。自分ではできないこと、人に頼らざるを得ないことがどうしても出てくる。そこで誰かから支援を受ける、サポートを受ける、何かを教えてもらおうとする時、サポーターとの間にパワーバランスが生じやすい。知識量も社会的地位も主導権も、サポートする側にウェイトが置かれている場合が多い。感謝を求められるというのもその一例だ。
 たまにこんな話を聞く。あの人は感謝が足りない。せっかく教えてあげたのに感謝されなかった。感謝がなかったから次からは親切にしない。こういう話を聴くのはとても悲しい。これは個人的な問題と言うより、もっと大きな社会的要因が背景にあると思う。
 そもそも、本来は障害者が一人で何かをしようとする時にバリアが多い社会の構造が問題なのであって、誰かのサポートがないとやれることが限られてくる時点でだいぶ追いやられている感がある。ただ、これは実感として「あなたは人から助けてもらうことが多いんだから、常に感謝の気持ちを忘れないようにしなさい」と言われ続けて育ったがゆえに、自分は人に助けられないと生きていけない存在なのだと遺伝子レベルで落とし込んでいる人も多い(この現象はInternalized Oppressionと定義されている)。そうなると、構造上の問題への違和感を受け入れることも容易ではなくなり、知らないうちに自己肯定感だけがどんどん下がっていたりする。その上さらに、どんな支援かに関わらず、たとえそれが結果として自分のニーズや希望やスケジュールに合っていなかったとしても、とにかくその都度サポーターに感謝しなければいけないプレッシャーにさらされるというのは、実はものすごくエネルギーのいることではないか。
 そしてこれはなかなかきわどい線かもしれないが、「ありがとうと言われるのが嬉しくてこの仕事をしています」という人も、私は結構危ういと思っている。このタイプのコメントはメディアで拾われやすい。特にこういうCMを頻繁に見て、支援を受けるイコール感謝を求められるという呪縛に縛られてしまう人もいるだろう。
 感謝しなければいけないプレッシャーを漢字続けるのはなかなかしんどい。ごめんなさいとありがとうを言い疲れて外に出たくなくなる人が多いのも納得だ。恩を売って来る人とうまいこと距離を取れる状況にあればまだいいが、その人がいないと生活が困るシチュエーションだったらもっと疲弊してしまう。
 感謝されることを前提にサポートを提供する、対応を変える、利用者を評価するというのは一種の暴力だと思う。誰かが自分に感謝しているのをみてやりがいを感じるというのもなかなかの搾取だ。感謝し続けないといけないこちらの身にもなってほしいし、そうじゃないとサポートが途絶えてしまうかもしれないという恐怖や不安も知ってほしいし、こういう構造が当たり前になっているから生じる弊害もたくさんあって、例えば人生の途中で障害を負ってしまった人は絶望的になるのではないかとも思う。
 かといって、じゃぁ今から感謝の圧力を全て跳ね返せるかというと、それはあまりにコストが大きい。うまく生きていくためには、やり過ごすことも必要だ。だから私は考え方を変えた。恩を売る人と出会った時には、「この人は人に感謝されることによって自分を保っているんだな。常に利用者よりパワーを持っていたいんだな」と思うことにした。
 ただ、支援する側も、結構ギリギリな状況下に置かれていることが多々ある。資金不足やオーバーワークなど、構造的な問題がたくさん潜んでいそうだ。だから、この仕事をしていてよかったと思える場面が、もしかしたら利用者の生活の質やスキルが時間をかけて少しずつ向上していくのを見る以上に、わかりやすく人から感謝される時なのかもしれない。でもそれは、申し訳ないけれど、感謝を求められる方もものすごく負担になる。感謝を求めるぐらいならお金を取ってくださいと思うこともあるが、これはそれこそ筋違いな話で、経済的に裕福な人だけが優遇されるのは問題の解決にはならないし、そもそも無くても良い精神的ストレスをお金で解決して、サポーターとの関係性が機械的になりすぎるのも安定的ではない。障害のある人たちにとって、サポーターの存在は必要不可欠だ。私も何度となく助けられてきたし、サポーターさんたちの人柄にも支えられてきた。でも本来、感謝されることがサポーターの仕事ではない。サポーターは、自分が持っている知識やスキルを、利用者のために役立てるのが仕事だ。だからそこのところは、サポーターがもっと余裕を持って働けるよう、制度を変えていかないといけないのかもしれない。
 人があってこその支援体制であることはもう本当にその通りなのだけれど、感謝する人にだけ優しいサポートではなく、もっと当たり前に、極論心理的虐待れべるでなければどんな態度の人でも対等にサービスを受けられるシステムが構築されるべきだと思う。もし感謝の呪縛に苦しんでいる人がいたら、まずは自分のしんどさを受け入れてほしい。そして、感謝を求められ続ける違和感を否定せず、ワンクッション置いてみてほしい。問題はあなたにあるのではなく、社会の構造にあるのだと。
 カナダBC州のソーシャルワーカーの倫理規定には、「ソーシャルワーカーは、自己満足のために利用者を搾取してはならない」と明記されている。私はこの箇所がとても好きだ。無理に感謝する必要は全くないし、あるものは存分に使ってほしい。それが現実的になるように、いろいろと改革も必要なのだろう。将来プロとして、利用者の暮らしに寄り添える、困っていることに多方向からアプローチできる、そんなワーカーになりたい。「どんな人でもどうぞ」と自信を持って言える、人からの感謝や評価ではなく自分の仕事に誇りを持てる、そんなワーカーになりたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?