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自分の論文が世に出た話

自分の名前で論文が出ることになった。めでたい。

「論文が出る」というのは、自分が書いた論文が、学会や研究会、大学などが発行する論文集(「学術誌」などと呼ばれます。有名どころは『Nature』とか『Science』とか。今回はもちろん『Nature』とか『Science』とかではない)に掲載される、ということ。掲載されるといっても「これ載せて」「いいよ」とあっさり進むわけではない。

論文ができたら、「これ載せて」と学術誌を作っているところに送る。そうすると、その学術誌を作っている人たち(編集委員)が、送られてきた論文の内容に近い研究をしている人たち(だいたい2~3人)に「こんなんきましたけど、どうすか」と見せる。見せられた人たちは、その論文をしっかり読んで、データの取り方や内容はまともか、書いてることにヘンなところがないか、新しい発見を含んだ意義のある研究か、などなど色々チェックして、「いいよ」か「ダメ」と、編集委員にお返事をする(この一連の流れの中で、「誰が書いたか」という情報は隠されている。中身で勝負)。編集委員はそのお返事を受けて、論文を書いた人に「というわけでOKです/ダメです」と連絡をする(実際は、「もう1回審査してやるから書き直して」などその中間みたいな返事もある)。もちろん落ちることもあるというか、基本は落ちるものだと思って出すくらいがメンタルに負担がないのでいい、と言われるくらいには落ちる。最終的に「OKです」となったらめでたく「論文が出る」ことになる。この一連のプロセスを「査読」と呼ぶ。

ともかくも、そのしちめんどうな「査読」を経てめでたくGOサインが出た結果、論文が出る運びとなった。自分にとっては、初めての査読通過。うれしい。

上に書いたプロセスを経て論文が学術誌に載るということは、つまり「自分の書いたものが学術的にきちんとしていて、発行される価値のあるもの」として認められた、ということ。自分の書いたものが第三者に価値を認めてもらえたんだから、それはうれしい。ただ、このうれしさ、それだけではない。

「学術的にきちんとしていて」いるとはどういうことか。色々要素はあるけれど、大事なひとつに「先行研究を踏まえた新規性があるか」ということ。
論文は、何もないところに思いついたものを1人で勝手に書くものではない。もちろんテーマの発想などに「ひらめき」が要ることはあるが、問題はその後。「今回扱うテーマについては既にこういう研究がなされて、こういうことが明らかになっている。けど、それだとこういう問題はまだ解決できないよね? というわけで今からそこんとこをはっきりさせたいと思います!」こういう感じ。要は、「今まで何がどこまで明らかになっているか」をきちっと示すことで、「この論文がなぜ新しいか」を示す必要がある。

論文は、文脈というか流れというか、ともかくも、先人が何十年、分野によっては何百年と積み重ねてきた研究活動の先っちょをほんの少し伸ばすものとも言える。

それが、できた。
これまで教科書を読んだり授業を聞いたり論文を読んだりとインプットをする側、受け手として関わっていた研究の世界に、アウトプット側として名を連ねることができた。そんなわけでうれしい。

日本で発行される印刷物は、国立国会図書館に納めることが義務として定められている(国立国会図書館法昭和23年法律第5号)。今回自分の論文が載った学会誌も、国会図書館に納められている。

これでめでたく、自分の名前を遺すことができた。自分に何かあって身罷ることになったとしても、自分の名前を検索したら(同姓同名の誰かではなく、自分の名前として)見つかるし、自分の書いたものが誰かの目に触れる。

ここで全然違う話になるけれど、自分は、「自分が死ぬこと」に対して漠然とした不安というか恐れがあった。というか正直なところ今もある。「えっだって『なくなっちゃう』んですよ!????」みたいな思いが、中学生の頃くらいからずっとある。中学生ならではの悩みでもあるような気がするけれど、そう言って笑ってみたところで消えないよね???みたいな感覚が、それから15年以上経った今でも全然消えていない。

自分が消えてしまう。周りを見渡せば自分が好きなものや選んだものに囲まれている。それがまるごとなくなってしまう。おそろしい話。

ただ、今回こうして論文が出た。自分が物理的に消えてしまった後でも、自分の遺したものがある。これが、思っていたよりなかなかどうして心強い。

もちろん論文を読む人間なんてほんの少しのそのまた少しみたいな人数しかいないとは思う。それでも、上に挙げたように、自分のやってきたことが(自分の専門分野において)今後の学術的な文脈の一部になる。「これってどうなってるんだろう」と思う人が読めば多少は手助けになれるし、批判されるにしろ、批判の対象になるだけの価値ありと認められた。

研究をしていると、上に書いたように先人の流れの中にいるというのはわかっているけれど、それでも1人でやっているような気分になる。そうしたどこかで孤独な営みが、学術分野というでっかい木に飲み込まれたような感覚がある。だんだんお話が宗教じみてきた。

ともかくも、ある種の孤独が救われたような感覚によって、単に「名前が載ったぜー」以上の安堵感を得られたよ、というお話でした。

もちろん学会誌は様々な論文の集合体であり、自分の名前で独り占めはできない。自分の名をもっとしっかり遺したい、というのであれば自分の本を出す方がいい。わかっちゃいる。とはいえそれにはまだまだ色々と足りない。精進は続きます。


本とか買います。