他人のものを自分に被せる乙部のりえ

前回レビューのコメントへのお返事 で

本命キャラはどっかから拾って持ってきたもので盛ったように見えます。

と指摘しました。

昭和のマンガの英才教育で育ったエリートの方ならご存知のガラスの仮面の中でも姫川亜弓が乙部のりえに似た指摘をしてました。


「演技の形がそっくりなだけで この人にぴったり重なってないのよ 浮いてしまっているわ」

「役を演じるには真似だけではだめなのよ そこに自分が入っていないと 自分という個性がもう一人別の人間の個性を演じる そこにその役者の魅力が出るのよ ただ演技がうまいだけではだめ」


「演技」を「絵」に変えると「どっかから拾って持ってきた他人のもの」で盛った絵と同じ構図になります。

「絵の形がそっくりなだけで この人にぴったり重なってないのよ 浮いてしまっているわ」

「絵を書くには真似だけではだめなのよ そこに自分が入っていないと 自分という個性がもう一人別の人間の個性を演じる そこにその漫画キャラの魅力が出るのよ ただ絵がうまいだけではだめ」

あなたの場合元の絵とそっくりかどうかはわかりませんがやはり
「この人にぴったり重なってないのよ 浮いてしまっているわ」
と感じます。
盛ってない脇役とのギャップがあまりに大きいので、素の画力が脇役の通りなんだろうなぁということは想像に難くないです。

他人のものでガワを盛るのって地味で地道な努力の積み重ねをせずにお手軽に上り詰めようとマヤの演技の横取りに腐心した乙部のりえとやり方が似てませんか?

では北島マヤはどうでしょう。
マヤは超天才なので演じる役に直感で成り切ってしまいます。

じゃあ姫川亜弓はどうでしょう。
姫川亜弓は努力を惜しまない天才なのでマヤのように何の手続きも踏まず役に成り切ることはできません。
その代わり彼女はその知性と知識と人間への理解と勇気と根性で完璧に役を内面から理解し作り上げてしまう。

この二人が共演した「ふたりの王女」がわかりやすいですね。
これも私などが説明しなくとも昭和のマンガの英才教育で育ったエリートの方ならご存知のことでしょう。

そしてそのエリートのあなたはマヤとも姫川亜弓とも違うやり方でキャラを書いていますね。
どちらかと言えばやっぱりこの二人より乙部のりえの方が近いように感じます。

お気に入りのキャラにだけ他人の見栄えの良いガワを貼り付けて盛る。
マヤのように本能的にキャラに成り切るのでもなく、姫川亜弓のようにキャラを内面から理解して作り上げるのでもなく。

そしてモブとの画力の差の違和感に自分で気付けない。
「この人にぴったり重なってないのよ 浮いてしまっているわ」
という状態そのものではないでしょうか。

360度マルチアングル若様ブロマイドは若様のガワだけ必死に見栄えの良い他人の何かを貼り付けることに腐心してるように見えます。
そのせいでしょうか。
若様の内面の個性を感じないんですよね。

そしてさしたる説得力のあるエピソードも書かれないまま(五月雨台詞弾幕はエピソードの積み重ねではなくただの説明台詞と思います)
説明台詞だけで男の子といきなり仲良くなって(仲良くなるエピの積み重ねはBLで一番大事な部分だと思うのですが、、、)お手々繋いでランランラン。
重機を用いた大規模不動産開発などできるはずのない時代、整地された場所の限られてたその時代に足場の悪い地下洞窟で。
どうしても時代考証がおざなりすぎてとにかくストーリーに集中出来ないです。

その後男の子から聞かされるまでは通り一辺倒の説明的台詞だけで、肉親や家臣を心底心配している様子がないように見えます。
自分にしか懐かないペットがそのような非常時に自分の側から離れても、特に心配した様子もないようですし。

非常時にそのような行動をする人間が人の上に立つ器に見えるものでしょうか?
若様に例え美形ブロマイドのガワをどれだけマルチアングルで大量に被せても、読者が魅力を感じる人間としての器とはまた別物だと思うのです。
見栄えさえ整えればキャラが好かれるという考えは、どんな棒演技でも顔さえ良ければいい、というやっつけのドラマや映画と同じではないでしょうか。

なお、私は過剰に表情を付けすぎるきらいのある若様や男の子は顔が良い悪い以前の問題で不自然だなぁの一言です。 
内面が伴った表情じゃなくて本当に「ガワ」だなぁと見えてしまいます。
内面から作ったキャラにはありえない不自然さです。

本来あなたが書きたいと夢見るキャラの魅力と実際のそれとが大幅にズレているのではありませんか?
ガワを取り繕うのに必死で内面はかなりガタガタに見えます。
少なくとも姫川亜弓のように知識や知性や観察力でキャラを内面から作ってはいないように思うのです。

それとも、ご自分は北島マヤタイプだから何の手続きも踏まずキャラに成り切って書けるということなのでしょうか?
その割にはキャラの人間性が一貫していないように思います。

乙部のりえは少なくともマヤそっくりの演技はできてましたから、マヤの作り上げた一貫性のあるキャラのコピーも一応できていたのでしょう。
しかし彼女はコピーはできるけど自力では奥行のあるキャラ作りは出来ない。
だから「カーミラの肖像」で本物の役作りによる演技力を見せつけた姫川亜弓に完敗したのだと思います。

ですから、「どっかから拾って持ってきた他人のもの」を使って絵を書くことは乙部のりえと似ていると思いますし、最大限に上手くいっても乙部のりえ以上にはならないのではないでしょうか。

乙部のりえはマヤという他人の演技の結果だけを自分のもののようにコピーしてマヤを追い落としました。
演技を作り上げる過程のマヤの努力に敬意を払っていたらそうは出来ないことでしょう。

ですから、「どっかから拾って持ってきた他人のもの」を使って絵のガワだけ整えて内面に頓着しないのは、他人の絵に敬意を払っていないということになると思うのです。

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