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特別客員研究員 研究発表会を終えて


はじめに

令和5年度京都産業大学 日本文化研究所 特別客員研究員 として、昨年7月から『花街下河原の歴史』を研究テーマとして本格的な調査を開始し、先月、研究発表会を無事に終えることができた。
これをひとつの区切りとし、今後は花街、遊里、遊廓跡に関する諸々のことをここから発信しようと思う。


研究テーマについて

研究テーマ選択の理由

ここで研究テーマ選択の理由に少し触れたい。
学生時代京都に住んでおり、花街にも興味があった。現在、京都には五花街といわれる花街があるが、かつては七花街と呼ばれていた時期や、さらに遡ると、所謂、消えた花街と呼ばれるところが数多くある。
但し、花街とはいうものの実際は遊里・遊廓と言われてもおかしくないようなところもあり、その名残がいくつかの街で見ることができる。

下河原はおおよそ高台寺門前、八坂神社南門から八坂庚申堂までの下河原通(かつては祇園大路、百度大路とも)の一帯をさし、明治19年まで存在した消えた花街のひとつである。
私が下河原を研究テーマに選んだのは、下河原の成り立ち、そしてそこで活躍した山根子と呼ばれる芸者たちの存在が理由である。


下河原の歴史

京都坊目誌によると、豊臣秀吉の正室北政所が秀吉亡き後、京都に移り住む際、徳川家康の配慮により、実母である朝日局が眠る康徳寺をこの地に移転させ高台寺を建立した。北政所は高台院と呼ばれ、芸事が好きな彼女をしたい、舞芸の達者なものたちが高台寺周辺に移り住んだ。

高台院がなくなった後、この女達たちが下河原の山根子と呼ばれる存在になっていくのであるが、彼女たちは廓芸者とは違う格式の高さを持っており、芸妓と違い花代は貰わず、扇料としてご祝儀しか受け取らないというもの。そしてその品行方正な姿から、下河原には遊女がいなかったといわれる。
山根子の高貴な姿は、下河原が明治19年祇園甲部に吸収合併された後も、祇園甲部にしっかり受け継がれている。

下河原の歴史
江戸時代初期、豊臣秀吉の正室である高台院がこの地に高台寺を建立。それに伴って連れてきた芸人が住み着いたのが、後の花街の始まりといわれる。下河原の芸妓は「山根子芸者(やまねこげいしゃ)」と呼ばれ、当時祇園などにいた「茶屋女」とは違い、遊女めいたところがなく、芸に優れていて人々を魅了した。

Wikipediaより

下河原や山根子に関して記載されている歴史的文献は数が少ない。『都林泉名所図絵』に「下河原の舞」として、三味線で舞う山根子の姿が描かれてはいるものの、山根子の存在を含め、まだまだ謎に満ちている。このミステリアスさが下河原に興味を持ったきっかけであり、下河原の歴史をもっと知りたいと考え、研究テーマの主軸にすることとした。


下河原「まくづ踊り」

現在、京都の花街には〇〇踊といわれるその花街独自の踊り(舞)がある。祇園甲部の「都をどり」が花街の踊りの発祥といわれるが、実はその先鞭をなしたといわれるのが、下河原の「まくづ踊」といわれている。

「まくづ踊」は伊勢古市の伊勢音頭総踊りを真似したものとも言われるが、いつどのようにして伝わってきたかは判明していない。これも下河原のミステリアスさのひとつであることから、今回、『花街下河原の歴史』の中でも、「伊勢古市「伊勢音頭総踊り」と下河原「まくづ踊」の繋がり」を探ることを研究テーマとした。


研究成果について

研究成果の詳細は、後日、またここで書かせていただくことするが、令和6年3月末の段階での研究成果を4月20日の研究発表会で披露した。

研究発表会の最後の講評で、わたくしの研究テーマ、および研究成果はまさに「謎解き」という感想であった。
自身も調査中まさに謎解きと感じており、下河原、伊勢古市、ともに資料、文献が限られる中、周辺情報をパズルのようにつなぎ合わせての研究であった。


研究発表を終えて

今回、縁あって京都産業大学日本文化研究所特別客員研究員として活動させていただき、無事に研究発表を終えることができたわけだが、当初目標としていた地点までは届かなかったものの、一定の成果を出せたことについて、ご支援、ご協力いただいた方々に感謝を申し上げたい。

『花街下河原の歴史』は、まだまだ判明していないところをが数多くあり、「謎解き」と言ったら失礼に当たるかもしれないが、調査研究した内容を紐解き、つなぎ合わせ成果が出せるよう引き続き調査、研究をしていく所存である。

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