マスクを強制されることの憲法的な意味を考えてみる

先日、「マスクを強要されることの法律的な意味」を考察してみた。

「マスク着用の強制」は違法、「マスク着用の協力」は合法、「マスク着用を強制させられるかのような協力要請」は極めてグレーだということを指摘させていただいたが、憲法的な視点からは、どのように権利が守られるのかについても考察してみよう。

憲法の根本的な役割は、法律に制限をかけることであり、主に国家権力を制限することにある。
どんなに法律で国民の権利を制限して義務を課したとしても、「個人の尊厳として基本的人権は保障される」として、法律に牽制をしているのが憲法だ。

では、憲法で具体的にどのような権利が守られるのか。
それは、「人権」と言えば何でも守られるわけではない。
思想良心の自由や信仰の自由などをはじめ、政治的表現の自由、学問の自由などが守られる一方、例えば喫煙の自由や飲酒の自由、他人を侮辱するに至る言論の自由には制限がかけられる。
一方で、奴隷的な拘束を受けない自由や、生命・自由・幸福を追求する権利、不当に差別されない自由が保障されている。

これらを踏まえ、「マスクを強制」されることについて、具体的に憲法はどのように関係してくるかを考察しよう。

まず、大原則として憲法は不当な不自由を強制することを禁止し、「公共の福祉に反しない限り」の自由を認めることを大原則としている。
つまり簡単に言うと、「他人に干渉するな、お互いに好きにさせろ」が大原則中の大原則なのだ。

そうすると、「マスクを強制」することが許されることが認められるのは、「マスクを強制することが公共の福祉に必要だとの合理的根拠がある」ということを前提に、マスクをすることの合理的必要性がなければ認められないということだ。
これは平たく言うと、「マスクをしなければ守られないような理由がないと、絶対にマスクを強制されることがない」と定めるのが憲法だ。

この大原則を破って「マスクを強制」することができるのが法律となる。
法律の話は以前に書いた通りである。

振り返って今の日本社会はどのようになっているだろうか。
憲法というのは、国家権力などから、不当な強制や差別を受けることから守る存在として位置しているのだが、それを全く無視している人が国民の何割なのだろうか。

法律や憲法によって統治される国を法治国家という。
せっかく手に入れた権利を放棄するのは自由だ。
しかし、法治国家を手に入れるため、人類は多くの血を流してきたのだ。
その法治国家を自ら放棄している人たちこそが、「マスクを強制」する人たちであるということなのだ。

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