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読書感想文という拷問。

夏休みの宿題であるドリルが終わると、そこに残ったのは、読書感想文とか絵画とかそんなやつだった。
この手のやつは親がつきっきりで見なければ、基本的には終わらない。
それでも私はあいかわず、図書館で借りてきた本(それは万引き家族だった)を読みつつ、片目をつむるように娘を見て、適当に気を紛らわせつつ娘の読書感想文の手伝いをした。
そうでなければ、苛立ってしょうがない。
私はそう考えていた。

そもそもだ。
まだ日本語を書くと言う行為すらおぼつかない彼らに800文字を埋めろ、というのが拷問ではなかろうか。
案の定、娘は数十文字書くのに四苦八苦し、タイトルすら決まらず30分が過ぎた。
もう親子共々めんどくさくなり、お昼にと買ってきたそば(それはスーパーのお惣菜コーナーにあった)を娘は食べ、私はサラダ巻きを食べた。
スーパーでそれを買う時、ママはいつもそれだね、と娘は言ったが、娘もいつもそばだった。あなたも一緒じゃない、というと、娘はそうだけどさっ、と笑って店内をスキップした。
ふっくらとしていた手足はいつのまにかすらりとし、去年買ったワンピースの丈かちょうどよくなり、妙に大人びて見えた。

子どもというのはそういうものなのだろう。
いつも妙でアンバランスなのだ。
化粧もしたがるし、I人前にネイルカラーも欲するが、女児向けテレビアニメーションを本気で楽しんでいる節がある。
それでも彼女はもう小学生で、やるべきことをやらねばならなかった。
たとえそれが今の彼女にとって、不釣り合いだとしても。

彼女が選んだ本は、彼女にとって少し幼稚な絵本だった。
でもその母は思うのだ。
もうこれでいい。せめて本人が書きたい本でやらせるべきだと知っていた。
彼女は、否、娘はそれで書きたいというのだ。
書かせない理由はなかった。

気がついたら夕方だった。
家には息子の見るYouTubeと、娘の見るYouTubeの音がこだまする。
バラバラとそれは家中にこぼれ落ち、ただの騒音と化している。
別にかまいはしない。
子どもたちのそばには、おびただしい数の畳まれていない洗濯物が山になって放置されているが、私は気にも留めないでいる。

明日の午前中か午後、きっと私は娘を怒鳴り散らすだろう。
私もかつてそうで、文才もなく本を読む習慣すらもなかった母に、嫌味を散々言われながらそれを書いた覚えがある。
私の母のすごいところは、読書感想文の書き方という本を買ったくせに、自らは全く読まず、その辺に放置したところだ。
児童用に書かれていたであろう、その本すらも読めないのだと、私は自分自身の母に、呆れを通り越し、妙に感心したのを思い出した。
母はとにかく、徹底して読書が嫌いなのだった。

幸いにも私は、本を読むことは嫌いではない。
その点だけは、まだ娘は私よりマシなのだろう。
読書感想文の書き方、という親切で分かりやすい本も事前に読み、学習した親に、適当にではあるが指示してもらえるのだ。
それは悪いことではないはずだ。
私は自分を鼓舞した。


今日、娘はたかだか数十文字を書き終えたあと、そばを食べながら読書感想文が終わったと信じてた。
まだまだこれからだよ、というと娘は絶望していたが、私はそれを無視してサラダ巻きを食べた。
万引きではなく正規の手続きを踏み購入したそれは、軽くシャキシャキした味がして、ぼんやりとした夏休みの昼間に、よく似合う味がするのだった。


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