天職

 小学校の用務員という仕事。それが自分にとって天職なのだと気付いたのは、この仕事を始めて3年たったころのことだ。
 総合商社を65歳で退職した私は、ただひたすらに繰り返される焼き増しの日々に飽き飽きしていた。在職中はあんなに楽しかった釣りやゴルフが途端に億劫になり、日がな一日惰眠を貪るか家のベランダから通りを行き交う車を眺めるばかりいた。そんな私を見かねた妻が伝手を頼りに取ってきた仕事が用務員だった。
「燃え尽き症候群なのよ。これまでずっと仕事してきたんだから、きっともう仕事なしでは生きていけないのよね」
 妻の言うことはもっともだった。オンがあるからオフが楽しめる。仕事があるからこそたまの休日が待ち遠しくなるのであって、こう毎日が夏休み状態では生活に張り合いがない。小学校勤務というのも心惹かれた。とりわけて子ども好きというわけではなかったが、元気に走り回る子どもたちを日常的に目にしていれば、枯れ果てた活力がふつふつと湧き上がってくるような気がしたのだ。
 それから3年間、週4日4時間労働の日々を休むことなく続けている。私の目測は正しく、子どもたちとの日々はすっかり灰色になっていた景色に色を与えた。色彩豊かになった世界を今、私は確かに生きている。そう、これはきっと私の天職だ。絶対にそうだ。
「行ってくる」
 台所で朝食の支度をしている妻に声を掛けると同時に居間の振り子時計が7時の鐘を鳴らした。
「え⁉ 朝ごはんは?」
「仕事を終えてから食べるよ」
 4時間労働といっても勤務時間は連続しない。子どもたちが登校してくる朝8時から10時までの2時間と下校する16時から18時、それぞれ校門を開け閉めしたり旗当番をしたり敷地内を軽く清掃したりその程度で老体にも優しい。
 自宅を出ると骨身も凍らすような木枯らしが吹き抜け街路樹を激しく揺らす。私は思わず襟元に首をひっこめて手をこすり合わせた。今日は一段と冷える。
 正門の前のアスファルトは一部凹んでいるところがあるから、夜露が凍って滑りやすくなっているかもしれないな。
 そんなことを思いながら歩を進める。晩冬の早朝7時はまだあたりも薄暗く、通りを走る車もまばらだった。時折やってくる対向車のハイビームに目をしばたたせながら今日のスケジュールを頭のなかで組み立てる。定められた仕事は少なく、適当にこなしても時間に追われることはないがすべての仕事をさっさと終わらせて子どもたちの下駄箱周りを掃除するのが最近の日課になっているので他の仕事はさっさと終わらせたい。
 正門前のアスファルトにはやはり氷が張っていた。私は職員室で鍵を受け取ると校門と裏門を開け放ち、散らばっている落ち葉を竹ぼうきで掃いていく。落ち葉を道路に捨てたままにすると近隣住民から苦情がくるので、掃き集めた落ち葉はきちんとゴミ袋に集めて焼却炉へ持っていく。秋には銀杏の葉で大変なことになるのだが、真冬ともなれば落ちる落ち葉も少なく、予想通り仕事はあっという間に終わってしまった。
 子どもたちの下駄箱は年季の入った木製ですっかり色あせている。子どもたちは休み時間のたびに運動場で遊ぶので靴は相当汚れるはずだ、しかし下駄箱の清掃は子どもたちに任されているそうで大人がしっかりと掃除することがないためどうしても泥汚れがあちこちに残されてしまう。私はそれらをひとつひとつ丁寧に拭き上げていると、そのうちにぽつりぽつりと子どもたちが登校してくる。
「おはざいまーす!」
「おはよう。今日も元気だなぁ」
 些細なやり取りなのに、それだけでどうしようもなく嬉しい。廊下を元気よく駆けていく『おはざいます』の男の子は半ズボンを穿いていて驚愕する。彼の小さな背中を見送っていると背後に人の気配がした。振り返ると赤いスカートを履いたおかっぱ頭の女の子が立っている。
「おはよ」
 俯きがちの女の子がぽつりと漏らす。
「おはよう。今日も寒いね」
「うん」
 女の子はこくりと頷いたまま動かない。何かを言おうとして迷っているように見えた。
「どうかしたのかな?」
 私がしゃがみこみ彼女の顔を覗き込もうとすると女の子は一歩下がって私から距離を取った。
「どうして、掃除をしているの?」
「え?」
「いつもしてる。でも前はしてなかった」
「あぁ……。えぇっと、それは」
 言葉に詰まる。どう答えたものだろうか。本当のことをこの子に言うわけにはいかない。
「それは、みんなと朝の挨拶をするためだよ」
「違うよね」
「……え?」
 俯いたままクスクスと笑う女の子の表情は黄色い学帽に隠れてうかがい知ることが出来ない。小さく笑いながら続ける女の子のそばを別の男の子が走り抜けていく。彼は私たちには目もくれない。
「半年前くらいからだよね。半年前ってほら、たけるくんがさ」
 聞いてはならない。私のなかの何かが叫んでいる。この子と話してはいけない。
「死んじゃったからでしょ?」
 子どもが自殺という選択肢を選ぶということを、私はその日まで知らずに過ごしていた。いや、ニュースや何かで知っていたとしてもそれは私の世界とは隔絶されたどこか遠い場所で起こっているものだと思い込んでいた。もしかしたらそう信じたかったのかもしれない。
 たけるくんは夏休みのさなか、ちょうど7月も折り返しを迎えたころにその小さな命を散らした。場所は学校の下駄箱。ちょうど女の子が立っているあたりでたけるくんは冷たくなっていた。
「お爺さんが見つけたんでしょ」
「どうして」
 その事実は誰も知らないはずだ。なぜなら、私はあのとき……。
 舌の根が渇き、視界が揺らめく。女の子が蜃気楼のようにぐにゃりと歪んだ。そういえばこの子の名前はなんというのだろう。こんな声の子をみたことがあっただろうか。挨拶を交わしたことが、あっただろうか。
「今度は逃げないでね」

「もう、気を付けてくださいよ」
 病院のベッドで目を覚ました私に呆れ顔の妻が言う。
「低血糖ですって。ちゃんと朝ご飯を食べないからですよ」
 下駄箱で倒れている私をたまたま朝寝坊をした児童が見つけたのだという。
「朝を食べないことなんて今までいくらでも……」
「昔通りの身体じゃないってことですよ。もうお爺さんなんだから」
 返す言葉もない。働き盛りのころは夜通し働くこともあったが、寄る年波には勝てないということだ。だが本当に原因は低血糖だったのだろうか。赤いスカートの女の子は私が見た幻だったのか。それとも……。
 医者には検査入院を勧められたが大人しく寝ている気にもならず、私は妻の反対を振り切って病院をあとにした。時刻は14時、今から学校へ向かえば夕方の仕事には間に合うだろう。
 電車とバスを乗り継いで学校に着いたのは計算通り16時前だった。低学年の子どもたちはすでに下校済みで、高学年の子どもたちがパラパラと校門から出ていく。
「さようなら。また明日」
 すれ違う子どもたちに挨拶をする。皆一様に笑顔で挨拶を返してくれた。子どもたちの顔と恰好をそれとなく観察する。朝見た赤いスカートの女の子。彼女がもし本当に存在するならば、どうして私の秘密を知っているのか確認しなければ。どこかで見ていたのか、あの日の愚かな私を、あの黄色い学帽の縁から捉えていたのか。
 きょろきょろと見回す視界の端で赤色がきらめく。
「あっ」
 それは二車線道路を跨ぐ歩道橋にひらめいていた。腰から下しか見えないものの、あれは、あの色は確かにあの子のスカートだ。
 私は駆けだした。軋む老体に鞭をうち、拍動する心臓を耳に聞きながら走った。歩道橋を一気に駆け上がる。だがそこには誰もいなかった。遊びながら帰った子どもが階段から転げ落ちた事件があってから歩道橋は下校ルートから外されている。冷静に考えればあの子がここに1人でいるはずがないのだ。
 私は落胆しながら階段を降りようとした。
「お爺さんのせいだよ」
 背後に突き刺さった声に驚いて振り返る。
「お爺さんが逃げたから。たけるくんは死んだんだよ」
 階段の最上段、いなかったはずのそこに女の子が立っていた。赤いスカートが不気味にはためいていた。
「違う。私は、ただ」
 脳裏にたけるくんの姿がフラッシュバックする。その日は夏休み中で当然私の仕事も休みだったが、なんとなくいつもの習慣を崩すのが嫌だった私は夏休み中も毎日8時には学校に行き、誰もいない校内の清掃をしていた。子どもたちが登校しない学校は当然だが大して汚れることもなく、数日もすると掃除する場所がなくなってしまった。私は汚れた場所を求めて掃除用具を握りしめながら子どもたちが使う下駄箱へ向かった。そこでたけるくんを見つけたのだ。
 泥で薄汚れた下駄箱の隅で、朝陽に照らされたたけるくんは小さくなっていた。私は最初、それが人だとは思わなかった。初めて見る子どもの死骸に私は自分でも驚くほど動揺して、そして私は。
「逃げた。お爺さんは逃げたのよ」
 そうだ。逃げ出した。家に帰った私は見たものを忘れようとして朝から焼酎を浴びるほど飲み、泥酔してベッドに倒れ込んだのだ。プールのチェックでやってきた教員がたけるくんを見つけたのは午後の15時頃だったという。死因は服毒死、家族からの虐待がその理由だったと後にマスコミが発表した。新聞に躍るセンセーショナルな記事はしばらくの間世間を賑わした。胡乱な目で報道番組を見つめる私に、神妙な顔をしたキャスターが衝撃的な事実を告げた。
『死亡したのは工藤健くん8歳。死亡推定時刻は9時30分ごろとみられているようです』
「私が、逃げたから」
 息が乱れる。ずっと逃避してきた現実を突きつけられて、頭からさっと血の気が引いていく。
「たけるくんはまだ死んでなかった。お爺さんが逃げなければ、あの子は死なずに済んだのよ。定められた天命から外れることもなかった」
「許してくれ!」
 私は慄いた。絶叫に近い声を上げ、女の子に許しを請う。その場にうずくまる私の頭上に、女の子が顔を近づけるのが分かった。
「じゃあ、逃げちゃダメだよ」
 ふわりと身体が浮く感覚がした。また低血糖で倒れるのか? そう思って、すぐにその考えが間違っていることに気付く。夕日に照らされた曇り空をバックに最上段から女の子がこちらを見下ろしている。
 彼女に突き飛ばされたのだ。そう気づいたときにはすべてが遅かった。ぐしゃりと鈍い音を立てて肩を打つ、肩の骨が砕けたようだった。だが勢いは止まらず、私はそのまま階段を転がり落ちた。何回転も世界が周り、その度に身体のどこかが壊れていく。階段を落ち切った私はもう指先ひとつ動かすことが出来ずにいた。あらゆる場所から痛みが走り、全身が危険信号を発している。どこかで女性の叫び声が上がった。
 これは断罪なのか。たけるくんを見捨てた私を、神が裁こうとでもいうのだろうか。私は眼球だけを動かして階段上の女の子の姿を仰ぎ見た。
 あぁ、違う。あの子は、神なんて高尚なものでは決してない。
 歩道橋の上には赤いスカートの女の子が数えきれないほどひしめき合い、競うように首を伸ばしてこちらを見下ろしている。初めて見る学帽の下の真っ白な顔はニタニタと笑っていた。
 真っ赤な口を歪めて愉快そうに笑っていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?