Insomnia 2話

 自動ドアの抜けた先には等間隔に扉が並んでいた。復温室、処置室、診察室、救急隊員待機室、霊安室と続く。どれも木製の扉にプレートが打ち付けられているだけで覗き窓がないため扉の向こうがどうなっているのかは分からない。なかにはプレートのない扉もある。それらを物珍しくて眺めていると、羽鳥さんが気づいて歩を緩めた。
「救急車の受け入れを一部ここで引き受けていたらしいね」
「一部、というと普段は別の場所で受け入れていたんでしょうか?」
「あぁ、1階にもっと大きな救急ステーションがあって、今は専らそっちで受け入れているらしい。ここは予備というか、昔の名残なんだろうね」
「昔?」
 羽鳥さんは「そういえばきみは東京から来たんだったね」と言って何度か頷いた。
「白瀬院は増改築を繰り返した歴史があるんだよ。医院の始まりは1930年代という話だから、開院から90年もたつ。一昨年に大規模な建て替えがされて、名称も白瀬郡立メディカルセンターと今どきな名前に改めたんだが、地元民からは昔のまま、白瀬院という名前で親しまれている」
 なるほど。タワー型PCのような建屋の外観に対して地下の装いが木製を基調としているのはそういった理由があるのだ。建築関係の事情には疎いが、確かに地下部分の建て替えとなると工事は容易ではないだろう。工事担当者は地下階は基本そのままに地上階のみをリフォームして費用を抑えたということだ。
 廊下を進んだ先はエレベーターホールになっていた。クリーム色のホールには3台のエレベータが設置されている。羽鳥は手前の一台のスイッチに手を伸ばす。扉の上にはAと刻印されていた。
「発電機のおかげで電気の供給は確保されているんだけど、節電のためにこのエレベータしか使わないで欲しいとのことだからきみも気を付けてね」
「あとの2台は動かないようにされているんですか?」
 羽鳥さんはちらりと隣のエレベータ、BとCが刻印された方を見やると首を捻る。
「さぁ? そういえば、使おうとしなかったから分からないな」
 ポンと小気味よい音を立ててエレベータが到着を知らせ、扉がするりと開く。病院のものとは思えないほど狭いエレベータで、人が5人ほど入ればそれだけでいっぱいになりそうだった。
 羽鳥さんが行き先階ボタンの前に陣取ったので、僕は彼の左な斜め後方に落ち着いた。彼が5階を押すとエレベータは大した揺れもなくスムースに昇っていく。
 階層を示すランプがついては消えるのを眺めていると、唐突に自分が羽鳥さんから”きみ”と呼ばれていることに気が付いた。不良看護師との諍いに助け舟を出して貰ったというのに名乗ってすらいない。
「あの、さっきはありがとうございました」
 背筋をピンと伸ばしてランプの点灯を眺めていた羽鳥さんは軽く振り返り、にこりと微笑む。
「なに、なんてことはないよ。困ったときはお互い様というやつさ」
 改めて羽鳥さんをまじまじと見上げる。オールバックに纏められた髪には白が混じっていて、顔に刻まれた笑い皺の深さから見ても40代か50代くらいに見えた。身長は180は越えているだろう。がっしりと筋肉がついているのも相まってまるで山のようだった。タータンチェックのガウンも質が良さそうで、いかにも値が張りそうだ。
「朽名俊一です。朽ちる名前と書いて、クツナ。フリーライターをしてます。春までよろしくお願いします」
 何気なく手を差し出してしまい、しまった、と思った。英国紳士然とした羽鳥さんの風貌に思わず握手を求めてしまった。羽鳥さんは一瞬きょとんとした顔をしたものの、すぐに相貌を崩して力強く僕の手を取る。体躯に相応しい大きな手だった。
「羽鳥健吾だ。無職でニートをしている。こちらこそよろしく」
 にーと?
 羽鳥さんの洗練された装いからは想像もつかない言葉が飛び出して僕は一瞬たじろぎ、その意味を理解する前にエレベータが再びポンと鳴った。
「さ、どうぞ」
 戸惑いながらも肩にかけたボストンバッグを担ぎなおしてエレベータを降りる。そこはとても病院とは思えないような壮麗な空間だった。
 フロアの中央は吹き抜けになっていて、ロの字型の壁には大小様々な扉がずらっと並んでいる。僕は吹き抜けにぐるりと張り巡らされている柵に近づいた。柵から吹き抜け部分までは50㎝ほどの足場があり、その先を覗き込むと1階フロアが見える。並べられた革張りのソファーがミニチュアのように小さく見えた。受付番号を表示する電光掲示板もあるので、きっと1階は総合受付のロビーだろう。
 上を見上げればさらに3階ほど上階があり、ガラス張りの天井からお日様がさんさんと差し込んできている。そのおかげで院内の照明は落とされているのにフロア全体はかなり明るかった。何より目を引くのが正面に見えるステンドグラスだ。1階から8階まで大胆にもステンドグラスがはめ込まれており、初冬の淡い太陽光を浴びて鮮やかな光彩を放っている。さらに7階、8階にはステンドグラス側のフロアは取り払われ、代わりに巨大な黄金の十字架がかけられている。
 大型複合商業施設と教会をくっつけたみたいな造りだ。
「凄い眺めだろう?」
 いつの間にか隣で腕組みをしていた羽鳥さんが自慢げに微笑む。
「病院とは思えませんね」
「本当にね。特にあれ」と言って羽鳥さんは黄金の十字架を指さす。
「キリスト教徒は大喜びかもしれないけれど、仏教徒のお年寄りは果たしてあれを見て感動するものかな?」
「一面のステンドグラスの方が良いってことですか?」
 羽鳥さんは悪戯っぽくにやりと笑った。
「日本には仏教徒の方が多いんだから巨大な仏像を置くというのはどうだろう?」
 ステンドグラスで七色の後光を放つ巨大な仏像を想像してみる。サイケデリックですこぶる気持ち悪い。羽鳥さんもそう思ったのか、「やっぱりナンセンスかもな」と苦笑いを浮かべた。
 それから羽鳥さんは5階フロアを順に案内してくれた。フロアは東西南北で役割が分けられている。エレベーターと、今は無人だがナースステーションがあるのが西エリア、大きな食堂と機材庫のある北エリア、一面のステンドグラスと広々とした談話スペースのある東エリアと巡り、病室棟のある南エリアへ着いた頃には長旅の疲れもあってヘトヘトになっていた。フロアをぐるっと回るなら荷物は西エリアに置いたままにすれば良かった。
「ここが朽名くんの部屋だよ」
 そう言われて顔を上げる。横開きのアクリル扉に大きく16という数字が書かれている。
「じゃあ私はこれで。そうそう私は11号室にいるから、何か困ったことがあれば相談してくれたまえよ」
 そう言い残すと羽鳥さんはひらひらと手を振って背を向けた。彼の背に「どうも、ありがとうございました」と謝辞を述べると、半身を返した羽鳥さんが快活に笑う。
「いえいえ、無職は常に暇を持て余しているのでね」
 彼は部屋を3つ過ぎた先の病室に入っていった。羽鳥さんがいなくなると途端に周囲から音が消える。気温も数度下がったような気がした。羽鳥さんのおかげで感じなかったけれど、人気のない病院というのはなんともいえない寂寥感がある。そういえば不良看護師こと湊さんの話では僕以外に4人の患者がこの病院に入院しているはずなのに、その気配を一切感じないのはなぜだろう。疑問符が頭の片隅に浮かぶ。春まで共同生活を送るわけだから他の病室を訪ねて挨拶をするべきだろうか。いや、やめておこう。身体がもう悲鳴を上げている。今は一刻も早くベッドに飛び込みたかったし、いずれ顔を合わせる機会もあるはずだ。細かいことは考えないことにして、僕は16号室の扉に手を伸ばした。

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