手紙

 父の遺品整理に行くと伝えたとき、母は案の定良い顔をしなかった。
ーー離婚して縁は切れてるんだから真希が行く必要ないでしょ。
 そんなことわざわざ言われなくても、私だって20年も前に父親を辞めた男の家に進んで行きたいとは思わなかった。私たちを捨て、ありもしないものを追い求めて出て行った父への情などとっくに冷め切っているのだから。
 父は私の妹、翼がトラックに轢かれてこの世をさってからおかしくなってしまった。当時小学校に上がったばかりの末娘を突如失った父の絶望は計り知れないものだったようだ。頬はみるみる痩せこけ、血走った目だけがぎょろぎょろと忙しなく動く様は映画に出てくるゾンビそのもので、血の分けた家族だというのにあの頃の私は本気で父を恐れていた。父が次第に人でない何か違うものに近づいていっている。そんなことを当時の私は本気で信じ込んでしまっていた。
 どこで知り合ったのか、父が妙な宗教家たちとつるむようになったことも原因の一つだっただろう。おかしな白装束を着たおじいさんが何人もやってきて、彼らと父は翼の部屋へ何時間も籠った。
 そんな父を私たち家族は恨むでも怒るでもなく、ただただ困惑して見つめることしかできなくて、当たり前のように上がり込んでくる謎の集団を、母はじっと何かに耐えるように眉間に皺を寄せながら睨みつけ、私は母のスカートの裾を握りしめていた。
 ある日のこと、「翼を迎えに行ってくる」と意味不明な手紙を食卓に残し、父は消息を断った。私から書き置きを受け取り、中をざっと読んだ母ははじめから夫は存在しなかったものと思い込むことに決めたようだった。手紙を乱暴に破いてゴミ箱に捨てたかと思うといつものようにエプロンをかけて、「今朝はパンケーキでも焼こうかな」なんて言いながら朝食を作り始めたのだった。
 あれから二十年。今頃になって父の訃報が届いたのだ。知らせを届けてくれたのは父の妹、つまり叔母だった。二階の自室でジグソーパズルに興じていた私はパズルを固定するための接着剤はどこにしまっていたかな、と思考を巡らせながら残りわずかになったピースをつまもうとするところだった。母の激昂する声が地響きを伴って響きピースを取り落とす。身を強張らせて耳に意識を集中させると2人の女性が言い争う声が聞こえてくる。片方の声は言わずもがな母だろう。階段を駆け下りると母の背中越しに強張った顔をした叔母が立っているのが見えた。
 叔母は私に気付くとそれまできゅっと絞っていた唇を緩めた。
「遺産のことが書いてあるの」
 現金なことだが、その一言で母の動きが鈍ったのが分かった。叔母はその間隙を見逃さずたたみかける。
「兄のことを恨んでるのは分かる。私たちだって警察から兄が自殺したって連絡が来たときは、だから何って思ったよ。でも遺書に真希ちゃんに遺産を譲りたいって書いてあるのを見たら、どうしても放っておかなかったの。これは兄なりの慰謝料みたいな気がして」
 そう言って叔母は懐の小さな鞄から一枚の白い封筒を取り出した。
 すっかり気勢を削がれた母は、しかしそれを受け取る気にはならないようで、その場で立ち尽くして呆然と差し出される白い封筒を見下ろしていた。きっとそれを手に取ることは家族を捨てて出ていった父を許すことに繋がってしまうのではないか、そう感じたのだろう。
 だから私が動けないでいる母の代わりに封筒を受け取った。
 その行動が遺産になんかまるで興味はなくて、純粋な家族愛から来るもの、と言ったら嘘になる。半年後に結婚を控えた私は何かと物入りの身で、たとえ少額でも遺産の譲渡など願ってもない申し出だったのだ。
 ほっとしたのか表情を緩める叔母に私は釘を刺す。
「勘違いしないで。これを受け取るからって、あの人のことを許すつもりはないから」
 叔母は再び表情を硬くした。何か言い返されるかと思ったが、叔母は何も言わずただ静かに頷く。
「遺産を渡すには条件があるの。中身を読んで、どうするか決めて」
「条件?」
「家に残されている遺品の整理を真希ちゃんにしてほしい、そう書いてあった。封筒には家の住所と鍵が入ってるから」
 封筒を軽く揺らしてみると確かにカサカサという音と何か固いものが入っている感触がした。
「もし遺産の受け取りを拒否したら?」
「そのときは妹の私がなんとかするから封筒は返してほしい」
 意地悪を言って困らせようと思って言ったのに叔母は涼しい顔でさらりとそう答えた。きっと断られる可能性は念頭に置いて来ているのだろう。
「わかった。それでいいよ」
 叔母が帰り玄関が閉まると私はその場で遺書の内容を確認した。母も気にはなるのかそっと首を伸ばして覗き込もうとしている。
 遺書の内容はひどくシンプルで、かつ感情を感じさせないものだった。叔母が慰謝料という表現をしていた割に私たちへの謝罪の言葉だとか、悔恨の念だとかは書かれていない。ただ自分がこれから死のうと思っていること、家に残されている遺品の整理を娘の私に頼みたいこと、私が遺品の整理をした場合は家に残されている家財を含めた全ての財産を私に譲ることが書かれているだけだった。
 母は大きくため息をついて被りを振った。
ーー遺産なんかどうせ二束三文よ。片付け費で全部パァになるに決まってる。それに……。

なんだか嫌な予感がするのよ。
 
 私は無心で坂道を登っていた。異国情緒漂う真っ白なアスファルトを睨みつけながら一歩、また一歩と歩みを進めていく。
 どうして鎌倉という街はこうも坂が多いのか。私は何度目になるか分からないため息をつき、吹き出す汗を藍色のハンカチで拭いながらまた足を持ち上げる。
 街を作るときにもう少し平坦に土地をならしておけばよかったのに。見目麗しく道路を白ベースに舗装する前にやるべきことが絶対にあった。そんな当て所のない文句を巡らせる私を嘲笑うように、すぐそばを郵便屋のスクーターが軽快に走り抜けていった。
 最寄りの駅から30分ほど歩いただろうか、遺書に書かれていた問題の住所にようやくたどり着いた。やはりというべきか、「ハイツ村山」というアパートは酷くおんぼろだった。あずき色の外壁にはこれでもかと蔦が這い猛暑の昼日中だというのにほとんどの部屋の雨戸が閉められている。街を車で走っているとこういう建物を時折見かける。この建物は果たして本当に人が住んでいるのだろうか?と疑いたくなるような、ああいう感じ。半分廃墟のようなアパートだった。
 昇るたびに嫌な音をたてる老朽化した外階段を上り、踊り場から右手に見える202号室が父の住まいだ。
 こんな安アパートでは遺産なんかとても期待できるものではない。冷静に考えれば父は仕事を辞めた無職の身で家を出たわけで、当時既に40を越えていた父がまともな再就職先を見つけられるとは思えない。ともすると母が言が正しかったようだが、だからといってわざわざ鎌倉まで来て手ぶらで帰るのも間抜けの極みのような気がする。
 お金になりそうなものだけ貰ってあとの処分は業者に依頼してしまおう。私はそう心に誓って、父の終の住まいとなった202号と刻印された薄茶けた扉を開けた。
 午後一時を回ったところだというのに部屋の中は真っ暗だった。猫の額のような狭い三和土から薄汚れ、はげかかったフローリングがぬっと伸びている。その先には扉があり、縦に入ったすりガラスの色から、その先の部屋も暗室状態なのだろうことが窺い知れた。
 廊下の右手に簡素なキッチンがあり、反対側の開いた横引き扉の先はトイレと風呂がついていた。さすがに風呂場に貴重品はないだろう。私は風呂場には立ち入らず、まっすぐ目の前の扉へ向かった。おそらくリビングだろう扉のノブに手を置くと、唐突に言いようの無い不安感に襲われてその場から動けなくなった。
 これ以上進んではいけない。身体の中の何かのセンサーがそう叫んでいる。背後にある開け放しの玄関の先から光が漏れ、私の背中を照らしているのを感じる。ジワジワというアブラゼミの鳴き声やときおり通り過ぎる車のエンジン音といった、そんな当たり前の音の一切が不思議なことに背後の玄関先から流れてきている気がした。
 この部屋は静かすぎる。異様なほどの静寂。まるで部屋全体が息を潜めているようだった。
 この扉の先、狭いリビングの暗闇の中に何者かが座り込んでいる。あまりの暗さに輪郭しか分からないが、きっとそれは女の子だ。女の子が抱えた膝の隙間からじっとこちらを睨みつけている。そんな空想が頭をよぎった。
 脳裏に浮かんだ幻想を振り払うように首を振る。暗いから、そう、部屋が暗いから変な想像が掻き立てられるのだ。何も気にすることはない。さっさと部屋に入って、締め切られたカーテンを開けて、それから窓という窓を開けよう。こもった空気を入れ替えればきっとこの気分だってマシになるはずだ。
 私は意を決してドアノブを捻った。きぃと嫌な音を立てて扉が開き、埃と生活臭の混ざったなんともいえない嫌な匂いが鼻腔になだれ込んでくる。幸いなことに暗がりのなかに女の子はいなかった。私は急いで窓側へ駆け寄ると手垢で汚れた窓と錆びついた雨戸を開け放った。暑気を孕んだ新鮮な空気で私は大きく深呼吸をする。
 がらんとした8畳ほどのリビングは小さなちゃぶ台と冷蔵庫、雑誌や文庫本の入ったブックラックが2つ、不透明なプラスチックの衣装ケースが1つと、ちゃぶ台の傍らに煎餅布団が敷いてあるだけの質素を極めたような部屋で、悠々自適な独身貴族の住まいというよりは、一人暮らしを始めたばかりの男子大学生のような部屋だった。あちこち探し回らなくてもろくな貴重品がないことは火を見るより明らかだ。
 それでも衣装ケースなんかは調べてみれば通帳とかへそくりなんかが見つかったかもしれないが、私の意識は一点に吸い寄せられる。
 それは一枚の襖だった。フローリング敷きの家にはあまりに不釣り合いな薄汚れた襖が閉められた状態で立ち塞がっている。どうしてこんな部屋に襖が、頭の上に浮かんだ疑問符はしかしすぐに打ち消される。元々が和室の作りで後からフローリングだけ敷き替えたのならこういう造りになるのかもしれないと思い直したのだ。思えばハイツ村山はかなり古びた見た目だったし、外観から想像するならむしろ和室の作りの方がしっくりくる。
 布団が洋室側置かれていることからも父が生活スペースをこちら側に置いていたことは明らかだ。とすると襖の向こう側は? 父のいう「財産」というのはこの先に保管されているのではないか。私は意を決して襖に手をかけ、勢いよく開け放つ。
「……え?」
 畳敷きの4畳ほどの部屋には財産らしきものどころか家具ひとつ見当たらない。部屋の中央にこんもりと白い封筒が山積みにされていた。
「なに、これ?」
 私は恐る恐るその山に近づき、適当な一枚を拾い上げる。封筒は既に封が切られており中には一枚の紙片が入っていた。そっとそれを引き抜き目を通す。
『パパへ。おげんきですか。あんまり会えないからさみしいです。お手紙まってるよ。つばさより』
「なによ、これ」
 たどたどしい筆跡は最近物書きを覚えたばかりの子どものようだった。いや、そんなことを思考の上に浮かべなくても私は心のどこかで分かっている。この筆跡を私は見たことがある。
 手に持っている紙片を放り捨て次の封筒に手を伸ばす。
『パパへ。はやく会いたいです。いつになったら会えるの? パパだけじゃつばさはさみしいです。ママとおねえちゃんにも会いたいです。つばさより』
 呼吸が乱れる。冷や汗がこめかみを流れるのを感じる。私はなんと迂闊だったのだろう。
 カサリという音がした。ハッとして紙片から視線をあげる。封筒の山は依然としてそこにあるが、果たしてあの山の一番上の封筒は初めからあっただろうか。自信がない。私は導かれるようにその頂上の封筒に手を伸ばす。
 封筒は封が切られていなかった。震える手で封を切り、中の紙片を取り出した。
『おねえちゃんへ。やっと会えたね。パパとつばさといっぱい遊ぼう。つばさより』
 これは、どこから。
 そっと天井を見上げた。カビの生えた木の天井には一部分だけぽっかりと空洞が開いている。その漆黒の暗がりの中にそれはいた。
「翼……」
 久しぶりに見る妹の無邪気な笑い声が狭い4畳の和室にこだました。
 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?