かえる小説文学賞_たぴちゃん
=====以下本文=====
『無題』
「みくー! 帰るよー!」
娘に向かって大きめの声を上げた。
真夏とはまだ言えないにしろ、日陰にでも行かなければこの日差しのなかにそう長くは立っていられない。
「まだ遊んでないよ」
娘は私のところまでは来たものの、帰ることを渋っている。
「滑り台、五回したら帰る約束でしょ?」
「だから、まだしてない」
そう言ってみくは、下唇を噛んだ。
それをみた瞬間、胸がチリッと痛む自分に気付き、同時に過去の記憶がフラッシュバックする。
学生時代に付き合っていた人は、誤魔化すときに下唇を噛む癖があった。
本当に大好きだったけれど、すれ違うことが多くてだんだんと距離が開いてしまった。
あのころの私は、彼に気持ちをうまく伝えることが出来なかった。今思えばそれも幼さだったのだろう。卒業後にそれぞれ違う土地に進むことになったときも、いつの間にか別れる流れになっていることに疑問を感じながら、へらへら受け入れることしか出来なかった。
最後に会ったとき、冗談めかして。
「他に彼女が出来たりはしてないよね?」と言った私に「そんなわけないでしょ」と、同じように笑って返した彼が、下唇を噛んだのを、私はせつない気持ちで見送るだけだった。
なんでよりによって、みくは下唇を噛んだのだろう。なにかの歌で、「君と別れて、別の人との間に子どもができても、きっと君の遺伝子もこっそり入っているだろう」なんて歌詞があった。なんてとんでもない歌詞なんだろう! と思っていたけれど、もしかしたらそういうことなんだろうか。
「じゃあ、あと一回ね!」
私がそう言うと、みくは嬉しそうに頷いて、滑り台に向かって走っていく。
公園にはたくさんの子どもたちの声が響いている。
きっと、さっきみくが下唇を噛んだのはたまたまなのだろう。
あの子もいつか、恋をするのかな。
眩しさに目を細めたのは、今日の日差しのせいか、想像した娘の青春のせいか、どちらだったろう。
頭上の青い空を見上げ、帰ったら御飯をといで洗濯機を回して、今日は唐揚げを揚げよう。なんてシミュレーションをする。
それが今の日常、私の幸せ。すべての過去が自分を作って、今の幸せがあるのだから、たまには思い出してあげるのも悪くないな。と思った。
=====以下講評=====
第一回かえる小説文学賞で大賞を射止めた作品。作中では会話文がとても少なく、ほぼ主人公の独白という形式であるにも関わらず情景が目に浮かびやすく、情緒的な雰囲気のある作品でした。この独特の情緒が他の作品にはない点であり、今回の選考では大きな加点ポイントになったようです。
中盤で「元カレの遺伝子を娘が受け継いでいる可能性」について言及しており、その一種不穏な空気が作品のメリハリにを与えていたように思います。
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