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M・Horkheimer 「 科学と危機についての覚書」(1932)試訳

①科学は社会のマルクス理論においては人間的な生産諸力に数えられる。先進諸国自身の中で低層階級に属する人々に与えられる自然や人間世界についての簡単な認識形態以後、過去数世紀にわたって科学とともに発展してきた、思考の通常の変遷の条件として、とりわけ、彼らの諸発見が社会的生活の形式に決定的に参与する研究者の精神的な能力の構成要素として、科学というのは、現代産業システムを可能にしている。科学が社会的諸価値を生み出すための手段として、つまり、生産形式における手段として公式化している限り、科学もまた、生産手段を示している。


②科学が社会生活プロセスにおける生産力と生産手段として作用することは、決してプラグマティックな認識理論に権利を与えることはない。認識の豊かさがその真理の主張によって役割を果たしている限り、その下で科学に内在する豊かさと外的な事柄との不一致は理解されねばならない。判断の真理を吟味することは、その判断が生活上の重要性とは別物である。この場合、真理についての社会的利害関心は決定されるべきではなく、理論的研究との関係の内で発展していた基準が必要なのである。確かに社会プロセスにおける科学それ自身は変化している。しかし、このことについての指摘は、達せられた発展段階上の認識状況にふさわしい他の真理基準を用いるための論拠として見做されるべきではない。仮に科学が社会的ダイナミズムの内に取り込まれたとしても、それでも科学はそれ自身から固有の性格を取り去るべきではなく、功利主義的にその性格が誤解されるべきでない。もちろん、プラグマティックな認識理論と相対主義を総じて生み出している理由は、理論と実践の実証主義的分離に行き着くことは決してない。一方で、理論の方向や方法、その対象すなわち現実それ自身も人間から独立することはなく、他方で、科学というのは、歴史的プロセスの要素である。理論と実践の分離は、それ自身、歴史的現象である。


③全般的な経済危機において、科学は、その規定を満たすことがない社会的な富の無数の要素の一つとして姿を見せる。今日、その富は初期の時代の資産を遥かに超えている。以前よりも多くの原料、多くの機械、多数の訓練された労働力、そしてよしとされる生産方法は現実に存在しているが、それらは人間の利益になるのには適さない。社会は、その今日的形態において、社会の中で発展してきた諸力と社会の枠組みの中で生み出されていた富を現実に使用する能力がないことを示している。科学的認識は、他の方法の生産力と生産手段の運命を分割する。その他の方法とは、認識を使用する尺度が高度な発展段階と人間の現実的欲求の酷い不均衡にある。それによって、また、学問的認識の広範な量的質的発展は覆い隠される。以前の危機の経過が示すように、現実的な均衡は、人間的かつ物質的諸価値を少なからぬ範囲で根絶することではじめて原状復帰することになる。


④人間的な関係のより良い具体化を目指して努力する諸力、とりわけ合理的科学的思考それ自身に過去の危機の責任を負わせることは、当の過去の危機の原因を閉ざすことの一部分である。思考の増大と洗練を、個々のものによって「精神的なもの」を形成することの背後に隠させること、そして、批判的知性が産業の中で職業上必要とされない限りで、その批判的知性の評判を決定的な裁き手として落とすことが試みられている。知性は日常生活の目的のための便利な道具でしかなく、知性は巨大な問題を前に沈黙せざるを得ず、精神の実質的支配を前にその場を取り除かねばならないという教説によって、全体としての社会への理論的取り組みは指針を変えられる。科学主義に対する現代形而上学の戦いの一部分は、この広範で社会的な動向の反映である。


⑤事実、戦前の数世紀の科学というのは、欠如の豊かさというものを示している。しかし、科学は行き過ぎた行為の内に横たわっているのではなく、社会的関係のいや増す硬直化によって引き起こされた矮小化、硬直化を矮小化することの内に横たわっている。学問外的な配慮に頓着せずに事実を記述する課題、諸関係の間に現出する規則性を固定化する課題は、元来、研究についてのスコラ学的困難と批判的に対決する市民の開放プロセスの目的の一部として定式化されてきた。しかし、19世紀後半において、こうした定義はすでにその進歩的意味を喪失していたし、逆に本質的なものから無関心を区別することに配慮することなく、現象の記録、分類、そして一般化を促進することの制約を証明していた。啓蒙が未だに支配されている、より良き社会のための利害関心の一部に、現在の永遠性を基礎付けるための努力が歩んでいたような尺度において、抑制的で解体された契機は学問の内へ入り込んでいた。部分的でしかない学問の成果が工業の中で有用的に利用されていたとき、その成果は、戦争以前に、激化する危機とその危機に結びついている社会的な闘争によってすでに現実を支配している社会的全体のプロセスの問題を前にして、ますます役に立たなくなっていた。存在であり生成ではないよう方向づけられた方法というのは、所与の社会形態を繰り返し同じ進行によるメカニズムとみなすことに合致している。そのような進行はたしかに遅かれ早かれ乱されるのかもしれない。しかしいずれにせよ、他の学問的態度をおよそ複雑な機械を明らかにするものとして必要としていない。ただ、社会的な現実、すなわち歴史的に活動する人間の発展は、とある構造を含んでいる。その構造を把握することは理論的な模写、つまり根本的に変化しているプロセスのあらゆる文化的関係をラディカルに変革するよう要求し、その構造は繰り返し現存しているものによって記録に適合させられた方法、すなわち古い自然科学の方法を通じてでは決して克服されえない。社会プロセスと結びついている問題を適切に取り扱うことに逆らって学問が閉じこもることは、方法と内容に関するとある平坦さを生ぜしめる。その平坦さとは、単に個々の対象領域の間のダイナミックな関連を粗末にすることの内に表現を与えることではなく、規律の操作において異なった方法を明らかにすることである。このような閉鎖に、不明確で硬直し物神的な諸概念による豊穣さがさらに役割を果たしうるということが関連している。一方でこうした豊穣さは、出来事のダイナミズムの内に取り入れることを通じて、明るみに出されねばならないだろう。例は次のものである。すなわち、科学の名目上の生みの親としての意識それ自体の概念、さらに人格と己自身から世界を定める理性、あらゆる出来事を支配する永遠なる自然法則、主観と客観の同一不変な関係、魂と肉体、そして他の定言的な形態などである。しかし、このような欠如の根本は決して科学それ自身の中にあるのではなく、科学の発展を阻み、科学に内在する合理的諸要素に違反している社会的諸条件の中にあるのだ。


⑥およそ20世紀の転換期以来、科学と哲学の中で純粋な機械的方法の不十分さと不相応さが指摘されるようになった。このような批判は、研究の重要な根拠に関係する根本的な討議に導いた。その結果、今日でも科学の内在的批判によって語られるようになった。これらの討議は、自身に結び付けられた普遍的な困窮の緩和へ期待を満たすことができない、多くの生産手段の一つとしての科学に外的な不満を加えるようになる。特に新たな物理学が、広範に克服された固有の分野、そして検閲の認識理論的根拠の内にある伝統的な考察方法の欠如を混ぜ入れたとき、総じて科学に諸対象の豊穣さをまずもって再び指摘せねばならず、わずかに抑制された考察方法を陳腐な視線で殺すことによる軌跡の多くの立場を制圧せねばならないものは、特にマックス=シェーラーによる、戦後形而上学の功績である。とりわけ重要な心理学的現象を記述し、加えて社会的な性格様式を描写し、知識社会学を基礎づけることは実り多く作用していた。しかし、形而上学的な探求が、自身の歴史的発展の中でほとんど毎回「生」を、それゆえそれ自身未だに神話的本質で現実的本質でないものを活気づける社会というものを具体的現実のように見せたことを除いて、そのような試みは結局のところ科学に比して広く促すものではなく、単にネガティブなものでしかなかった。形而上学的な試みを、階級に合致した狭さによって歪められた自身の枠内を通じて科学に示し、ついに打ち砕くかわりに、こうした試みは、前世紀の多くの観点からして不十分な科学を総じて合理性と同一視し、判断的な思考そのものを否定し、恣意的に選ばれた諸対象や、科学から解放された方法論にも身を任せてしまっていた。自身の独立の感情に基づき人間についての個々の諸傾向を絶対視した哲学的人間学が生まれた。そして、批判的知性に対して科学的基準の束縛を超えた、天才的眼差しとも言うべき確かな直観が対置された。そうしてこうした形而上学は社会的危機の原因から目をそらし、それどころか、社会的危機の原因を追求するための手段を無価値にしてしまうのである。この形而上学は、孤立させられ抽象的に把握された人間を実体化し、それによって社会的な諸事象の理論的な了解の意義を矮小化してしまう。そうすることで、特殊な混乱は社会的な危機を引き起こすのである。


⑦単に形而上学ばかりでなく、形而上学によって批判される科学自体もまた、その科学が現実的な危機の原因を取り除くことを妨げる形態を維持している限り、イデオロギー的である。このことは、科学の担い手自身にとって、純粋な真理は問題でない、ということでは決してない。対立の上に築かれた社会の真なる自然が覆い隠す人間のあらゆる行動様式は、イデオロギー的である。そして、哲学的、道徳的、宗教的信仰儀式、科学的諸理論、諸法規、文化的諸制度がこうした機能を果たすということの固定化は、決してこれらの創始者の性格に関係することはなく、社会の中のあらゆる行為が果たす客観的な役割に関係しているのである。それ自身で正しい見解、反論の余地もないほど高度な性質でできた理論的かつ美的作品は決められた諸連関の中でイデオロギー的に作用することもありえるし、それに対してイデオロギーでないような幻想も多くある。イデオロギー的な仮象は、社会の構成員によって、経済的な生活における諸連関の立ち位置の基礎の上に必ず生じる。関係が広く進展し、利害関係の対立がそうした先鋭化に達してはじめて一般人の目でさえ仮象を見抜くことができるようになる。こうして、自己意識的な傾向性をもつ固有のイデオロギー装置が成立することが習慣となる。自身を内に含む緊張を通じて存続している社会を危険に晒すことでもって、イデオロギーを保存することに向けられたエネルギーは増大し、最終的に、こうしたエネルギーを暴力的に支えるための手段は先鋭化される。ローマ帝国が解体する諸傾向によって脅かされればされるほど、それだけいっそう残忍に皇帝たちは古い国家崇拝を刷新しようと試み、それとともに統一性の滅びゆく感覚を修復しようとしたのであった。キリスト教の迫害と国家の没落に続く時代は、規則的に繰り返す推移のそのほかの恐るべき例で満ちている。そのような時代の科学の内部でイデオロギー的な契機は、次のようなことの内にわずかに現れているのが常である。すなわち、科学は虚偽の判断、すなわち、その科学の不透明性、協議の欠如性、それを覆い隠す言語、その問題設定、その方法論、その研究の方向、とりわけ科学が目を閉ざしているものの内に含んでいる。


⑧今日、科学の活況は、矛盾に満ちた経済に似姿を与えている。こうした経済は広範囲で独占的に支配されているが、世界規模では解体されており、混沌と化し、これまで以上に豊かになる。しかし、こうした経済には貧困を取り除く力がない。また、科学の中には二重の矛盾が現れている。第一に、原則としてあらゆる経済の歩みは認識論的根拠をもっているということである。しかし、最重要な歩み、すなわち課題設定それ自体は理論的な理由付けを欠いており、恣意性に委ねられているように思われる。第二に、科学にとって包括的な連関の認識が問題であるということだ。しかし、科学固有の現存在や科学による業績を目指すことが依存している包括的連関、すなわち社会を科学はその現実的な生の中では把握できないのである。この二つの契機は密接に結びついている。他の企てと同様に、科学的企ての上辺だけの恣意的な言動の中に自身の価値を認めさせる法則を暴くことは、全社会的な生活プロセスにともに含まれている。というのも、科学もまた科学の業績の範囲や輪郭によってあとから単にその固有の傾向を通じて規定されるのではなく、結局のところ社会的な生活の必然性によって規定されているからである。19世紀における科学の進展をその法則性を無視して明らかにし、繰り返しこの時代の哲学によって批判されてきた精神的エネルギーを浪費し乱費することは、自由に科学のイデオロギー的機能と同様に単なる理論的な洞察によって克服されるものではなく、ひとえに歴史的実践の中での科学の現実的諸条件を変化させることによって克服されるのである。


⑨文化的無秩序は経済的諸関係とそれから生じる利害関心の対立とに関連があるという教説は、物質的精神的財産の現実性の度合いないし序列関係について何も述べていない。この教説は、世界が絶対精神の産物かつ表現とみなされうる観念論的見解とはもちろん、矛盾している。というのも、この教説というのは、精神を総じて歴史的現存在から剥ぎ取り、独立したものとみなしていないからである。しかし、観念論が疑わしい形而上学の内に見られるのではなく、むしろ人間の精神的着地点を実際に展開させるための努力の内に見られるのならば、そのとき理念的なものの独立性についての唯物論は、現代形而上学の大部分より古典ドイツ哲学のこうした概念に合致することになる。というのも、人間的生を退化させ破壊するものの社会的な原因を認識し経済を実際に人間に従属させるという試みは、精神的なものが歴史の進展から離れて優位性をもつというドグマティックな主張よりも古典ドイツ哲学の努力にふさわしいからである。


⑩当然、科学の危機について語られる限り、その危機は一般的な危機から分離されえない。歴史的プロセスは、生産力として科学を拘束することを必然的に伴ってきた。その拘束は科学の部分、その内容、形式、すなわち方法論に応じるテーマにおいて効果を現している。加えて、生産手段としての科学はふさわしく用いられているわけではない。科学の危機を把握することは、現在の社会状況の正しい理論というものに左右される。というのも、(社会機能としての)科学は、現在における社会の矛盾を反映しているからである。

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