M・Horkheimer「科学と宗教に関するショーペンハウアーの思想」(1971)試訳
①近代哲学史において、ショーペンハウアーの著作はペシミズムの原型と見做されている。「…死がそれほど恐ろしくないのならば、誰がそのような生を耐え抜くのだろうか?―そして、生が喜びであるのならば、誰が死についての考えに少しでも我慢できることがあるだろうか!と同時に、しかし、依然としてあらゆる死は生の終わりのために善を保持し、我々は死とともにある生の苦しみと、生の苦しみとともにある死についての慰めを自身に与えるのだ。この両者というのは、それから逃れることがどれだけ願わしいことであるかという迷い過ちを取り除くことによって、離れることなく互いに補完し合っている。これは真理である」と、彼の主要著作の第二巻では述べられている。そして、彼はヴォルテールの「幸福は夢であり、苦痛は現実である」という言葉を引用している。ショーペンハウアーは次のことを明らかにする。「幾千もの人々が幸福と喜びの中で過ごしていたことは、個々人の不安や死への苦悩を何も止揚しなかった。同様に、私の現在の息災は自身に昔からあった苦しみを元に戻せやしないのだ」ということを。彼が「…福音書の中で世界と災いが類似の表現としてもたらされたから」といくらか広く誤解したキリスト教は、少なくとも18世紀まで―いや、ほとんど現在までと補足しておくが―、とりわけ天国と地獄、来世の個々人の運命についての考えを持っていた。古代ローマの残虐行為によるキリスト教徒の犠牲者でさえ、歴史家ハルナックが述べていたように、永遠の浄福での短く、事実苦悩に満ちた道として、闘技場の拷問台の下での唯一の死を理解していたのだ。個人の罪の意識で満たされている、真に宗教的な人間の生には、今日疑わしい意味(der Sinn)を持つ。ショーペンハウアーの心理学的意義(die Deutung)それ自身は疑わしい。個人の死についての慰めは、ただ生における苦しみに由来するというだけでなく、仮にそうした慰めもなく幸福が最終的に消滅せねばならないとしたら、苦しみについての慰めは、死に由来することもない。形而上学が来世、すなわち肯定的なものそして善としてのそれ自身(das An-sich)もしくはひとつの否定的なもの、悪そして無としてのそれ自身を解釈したとき、形而上学はなおも疑わしいのである。人間的思想は自身を超え出ないことを実現するという事実を配列する能力がある。ただし、この世界とは異なる一なるものへの、神学に由来する憧れ(die Sehnsucht)は別として。もしも来世が単数形や複数形において存在するのならば、きわめて強力な本質についての概念は、無の概念ほど主観的ではない。
②およそルネサンス期まで、それどころか多くの社会的集団にとってはなおも19世紀後半まで、全能で最善の神、その神の戒律の拘束力は、今日の物理的化学的理論ほど確実で現実的ではなかった。聖書に従って世界を創造することを否定する人は異端者と見做されるどころか、精神的に劣ったものと見做された。現世としての生の理念は来世についての思考を閉じ込めてしまう。この思考を示すことには、宗教が科学によって揺さぶられて以来、社会的心理学的に西洋文明における哲学を先に進めるための最大のモチーフがある。その上、管理というのは、今後この最大のモチーフほど包括的にはならない。カタストロフがこうしたプロセスを無に帰せしめることがないのならば、堕落は存在するだろう。神の証明を通じた死後の報酬や処罰についての思考や、そうした証明を含めて社会的に必須な行為への内的衝動を科学的―技術的進歩と宥和させるために、近代哲学は広く社会的な機能を行使してきた。課題はいつも困難に陥り、最終的に解決不能になってきた。すでにデカルトによって、神の論証へ立ち戻ることを手がかりにした切れ味の鋭い論述は、現存在を放棄している。彼は次のように述べる。私の内で生命力を持つ表象(die Vorstellung)に相応しいような完全なものや最高なものが存在しないのならば、それらは私の精神には存することができないだろう。というのも、原因(die Ursache)が結果(die Wirkung)よりも非力であることなど決してないのだから、と。カントとは対照的に、現存在は完全性の一部なのだ。私が神を思考する能力があるということは、神の存在(die Existenz)の確実性を保証している。偉大な哲学的思考による前―有神論的な表出それ自身の不十分さは、後の世紀で通例となった。経験論の父であるジョン・ロックは、宇宙論的な神の証明に戻っている。合理主義者であるライプニッツは、論理法則に注目することなくして真なる意識など不可能であると、論理法則と同様に内在している、理性(die Vernunft)としての最高存在者の理念を明らかにしている。慣例の神の証明を独創的に批判したカントでさえ、例外ではない。過去と現在での恐怖を顧慮して、内なる法則としての隣人の尊敬があらゆる人間的主体を我が物とするという主張は、永遠についての一神教の教説ほど証明不可能ではないのに対して、最高の存在者の確実性は定言命法から要請されるのである。
③宗教と同様に哲学において、世界を超越した正義の働きについての確信が、最後に楽観主義的な心情を保証するのならば、彼の無神論とは関係なしに、ショーペンハウアーは単なるペシミストではなかった。また、キリスト教神学とショーペンハウアーを、嘆きの谷としての地上についての共通のテーゼと並んで、個々の魂の死を超えて差し迫っている公平な運命についての理念は結びつけていた。一方で苦痛に満ちた存在への再生、同様に他方で絶対的単一性への帰還というのは、彼の教説によれば、個人の道徳的実質もしくは共苦と共喜についての彼の基準、この生における彼の憎しみに相応しいのである。そうした約束は、より新しく合理的な方法の内で永遠の正義に合致していた。現在、そうした正義を疑い続け、それどころかそうした正義にへりくだることは、古い世代よりも若い世代の不満を無意識的に協同で引き起こすことになる。したがって、罪のない人々の苦しみ、悪の勝利、常に付きまとうすべての身の毛もよだつような残虐行為は、永遠なるものの内では湧き上がることはない。憤慨や満足、それどころか正義や不正義の概念は既定の事件への反動として最終的に受け継がれ、心理学的社会学的発展によって吸収されるだろうが、現世の出来事の最終的なことの表象は、現在、純粋に知覚している人間と矛盾している。
④科学、すなわち理論的活動と同様の実践的活動の道具(das Instrument)へのあらゆる理解によって、超越者や無制約者についての思考を維持することは教義(ドグマ)と見做されるのではなく、人間を結びつけている精神的な動因と見做されている。このような思考を維持することは完全には色褪せていない文化的諸契機、しかし最も深刻な動因の上で危険にさらされている諸契機に数えられる。家族の解消、真なる権威の衰退、とりわけ様々な学校における授業の長期に渡る必要な改革を放置することは、個々人の展開と対立している諸根拠の統一にすぎない。こうした問題はショーペンハウアーによって広く認識されていた。彼にとって正しさへの肯定的絶対性や神性の確信は問題だらけのように思われていたが、彼は宗教的世俗的告白の社会―心理学的ダイナミズムを詳細に論究していた。ひとは故郷に向かっている宗教と誠実の関係について考えていた。自分の民族(das Volk)への愛がナショナリズムや悪しき愛国心の中で他のグループへの憎しみに転化する限り、こうした愛はショーペンハウアー以後、広く形而上学的に基礎づけられ倫理的機能を満足させている。国家は個人よりも長生きすることを常とするどころか、ある意味で個人の相続人を保存することを常としている。そして、個人は同胞とともに共同で、集団の運命ごとそれぞれ、個人があらゆる相違点によって故郷とともにあるものの一つに従った本能である、言語・習慣・自負心・劣等感を持っているのである。道徳の基礎についての懸賞論文で述べられている「〈個人の知性のために死へと進むひと〉は、現存在を個人の人格に制限するという欺瞞によって自由となった。そして、そのようなひとは、その人の同郷の人々に基づいて固有の存在を拡大していく。彼は故郷の人々の内で生き延びるどころか、彼は自身が活動している、つまり見たものが妨げることがない目配せのように死を観察するまさにそれの来たるべき種に基づいて、彼に固有の存在を拡大させていくのだ」数千年来、ユダヤ人のための心的態度が決定されていないとしたら、そうした心的態度は民族として生き延びては来なかったであろう。聖書には個人に加えて民族に向けて呼びかけられている部分があり、差異は止揚されている。ひとは隣人愛の戒律について考えています。「そして、もし汝の土地でよそ者が汝の横に滞留していたのなら、汝は彼を追い出してはならない。どれほど汝のもとの一人の子供が汝にとってそこに居続けるよそ者であるとしても、汝は彼を自分自身のように愛さねばならない」個人が無条件に彼の民族と同一化し、それどころか不滅の個人が民族の中で固有の死の後で明らかになったことは、私には、なぜユダヤ教の中で魂の永遠性が個人的な信仰にならなかったのか、ということの理由であるように思われる。
⑤実証主義、すなわち科学の絶対視、ずばり科学の認識を真理と同一視することとショーペンハウアー的なペシミズムの関係は、しつこく規定されうる。たとえどれほどショーペンハウアー自身がその違いを重視しようとも。人間の虚しさ(die Nichtigkeit)は、彼独自の哲学と同様、科学主義的な自然認識からも推論される。「無限の空間に無数の光る球があり、そのひとつひとつの回りをおよそ一ダースほどの照らし出された小さい球がぐるぐる回っているが、その内部は熱く、堅くて冷たい皮に覆われており、その皮の上でこれを覆っているカビが認識する生命体を生み出した。―これが経験的真理、実在であり、世界である」この一節とともにショーペンハウアーの主要著作の第二巻(別巻第一部第一章)は始まっている。今日、どれほど科学がこのテーゼを細分化しようとしても、根本的に科学はこのテーゼと一致している。だが、ショーペンハウアーにとって科学は現れ(die Erschei-nung)の世界についての、そして人間と宇宙との関係についての単なる経験的な判断でしかなく、形而上学的な実質についての単なる経験的な判断ではない。それでも、彼の教説は現実の宗教的意味よりかは科学に近い位置にある。というのも、世界の根源は彼の教説に従うと、なるほど精神的な神ではないが、愚かな意志(der Wille)であり、現存在や生への隠された欲求(der Trieb)であるからだ。経験的な学者諸君は根源については心得ていないが、―フロイト学派は別として―なおもきわめて稀なテーゼを生み出す、人間や動物における内なる衝動(der Antrieb)を心得ている。とりわけショーペンハウアーの著作の現代性は、この進歩した認識とその内的関係に基づいている。彼の形而上学の重要な要素、それと同時に個々人の内にある生への意思は、心理学的にリビドーとしての何かによって解釈されてきた。いずれにせよ、諸科学は彼にとって諸宗教よりも意義あるものと見做された。その諸宗教が「民族にとって必要であり、[…]計り知れない恵みをもたらす」としても。彼は、死というのは我々になんの関係もない、というエピクロスの洞察を肯定する。というのも、「いつ我々は存在し、死が存在していないのか。他方で、いつ死は存在し、我々が存在していないのか」と疑問に付すからである。死を前にした恐怖というのは、ただ生への盲目的意志(der blinden Willen zum Leben)から発せられたものにすぎないと言う。問題なのは、固有の現存在の持続ではなく、来たるべき性衝動における正しい継続であろう。「あらゆる愛の不和というのは[…]、人間の生におけるあらゆる他の目的よりも実際に重要である」つまり、彼は、あらゆる個々の場合において自身の細分化や特殊な規定の中で「次世代の構成」に関わっている。愛国心というのは、特に科学の王国においてそれが目に見えて効果を表すとき、宗教への愛国心によって肯定的に評価された近さに関わらず、いかがわしいものであり続ける。「つまり、純粋かつ普遍的な人間性が営まれている場所、そして真理や明晰さ、美しさが、固有の価値を持つ人間が率直に属している国家への偏愛を皿の中に置いておこうとするに値するだけの場所よりも恥知らずでありうるものは一体なんなのか?」
⑥話題が生への粗雑な意志ないし唯一の正当な形而上学的彼岸、つまり無(das Nichts)にある限り、ショーペンハウアーは、紛争の中で実際に証明可能なものの側に立つ思考や感情と批判的に関係している。彼は、マルクスほど当時のプロレタリアートの貧困を知らなかったし、自由に最終的な結果としての諸力を自由に展開する、疑わしいユートピアを宣言することなしに、そうした貧困への非難もしなかった。「どのように人間が人間の態度をとればいいのかを黒人奴隷は示している[…]が、ひとはそこまで行く必要がない。つまり、5歳で紡績工場に入り、それから毎日10時間、次いで12時間、最終的に14時間と同じ機械労働をすることは、呼吸する喜びを高い値段で買うことを意味している。だが、このことは数百万人の運命であり、その他多くの数百万人も似たような運命である」国家の必要性はマルクス以後、社会的不正義に基づいている。国家は、社会を公正自由に形成するものと見做されているのである。結局個人は、ショーペンハウアーが国家を解釈したように、現実の内で無効となってしまう。未来は集団、種属の最終地点のものである。確かに未来は生への意志の現れ、予測のつかない過ちの持続にすぎない。だが、諸個人は手段であり、種の歴史の比較的短命な中間段階である国民なのだ。現在起こっていること、個人の社会的意味の退行、個人の増大する代替可能性は、ショーペンハウアー哲学以後、首尾一貫している。いずれにせよ、それによって死への不安の倒錯についての教説や人間的な自我(Ich)の現存在の空虚さについての教説は証明されている。未だ文化に結び付けられた、そうした教説によって危惧され告発された、増大するオートメーション化は、単に史的にだけでなく必然的な進歩でもって実証されているのだ。そして、合理的組織、それどころか取るに足らない大衆の中での平等は伝播しているのである。ショーペンハウアーがそれについて意見を述べなかったときも、人間性を構築することは、徹頭徹尾ショーペンハウアー哲学の極楽のような未来についての有神論的、ユートピア的そしてその他の幻想とは対照的に、最高で最も技巧的な動物種として合致している。この二者択一は自由と抑圧もしくは正義と完全に管理された世界の両方を述べている。自由や諸力の展開は必然的に強靭なものによる抑圧と結びついているが、同一性はそれ自身の社会を可能にしてきた知識階級の衰退と結びついているのだ。あらゆる機能を適合させることは、意味に即し、必然的で、同時に憂慮すべき、人種の目標として現れることになる。
⑦ショーペンハウアーの教説は科学と手を結んでいる。そして、偶然ではなく、フロイトは「ショーペンハウアー哲学と心理分析の広範な一致」を繰り返し参照している。奥深くの感情、死への誠実さ、それどころか偉大な悲劇のモチーフを作り出すような情熱的な愛は、憎しみになることはなく、分析の中で治療の客体となる。特にこの愛は男にとって典型的である。「性的なものを過大評価することは、強迫神経症に警告する本来の、夢中になったものの未来が生じることを許すことである。同様にその未来は、自身を客体に有利になるように、リビドーについての自我を貧困にさらすことになるのだが」。悲しみについてフロイトは次のように述べる。「我々は、リビドーは自身をその客体にクリップ止めし、次いで失われた客体を放棄することはない、ということしか語れない。もしもその代用が広範にあるのならば」。それどころか、理性的な行動への力が消されることがないのならば、ひとは一歩を踏み出すことができるだろう。あまりにも深く、あまりにも長く嘆き悲しむことをフロイトは、他の非プラグマティック行動様式と同様に、間違ったものとして捉えている。「陰鬱な悲しみ」これは「メタ心理学」の中では「愛した人間の喪失への反応は[…]、とにかく新たな愛の主体を選ぶための能力、受託者を補うよう命じるもの、故人の追想でもってでは関係することのないあらゆる業績から目を背けること、これらの喪失をも包含している。[…]本来、このような関係はそのことについて我々の前に病的に現れることはない。というのも、我々はそのことをちゃんと説明するすべを心得ているからである」と言われている。それ以来、成功を収めた分析は実証的となり、その分析は道具的理性(die instrumentellen Vernunft)を実際に適用している。愛する人間の喪失も戦争の損害も決定的に自身の生に影響を及ぼそうとはしない。いまだ途方もなく狼狽している全ての人間へと同様に起こったことの必然性へのショーペンハウアーの積極的な指摘は、形而上学的な思考方法そして、ショーペンハウアー自身が盲目的な生への意志からの離反ないし「心の完全な静寂」(gänzliche Meeresstille des Gemüts)まで制限しようとした絶対者への希望よりも近しい、味気のない科学的思考方法である。ショーペンハウアーはあの深遠な静寂、単に「不動の確信と明朗さ[…](そして)完全で確実な福音(das Evange-lium)」としての「ラファエルとコレッジョが描き出したような顔の反映」を高く評価した。社会の昨今の進展が宗教的な信仰を手放す傾向にある限り、ショーペンハウアーの思想は、厳密な研究によって制限された認識ほどペシミスティックではない。逆に、意志の否定、「あらゆる理性よりも高貴な安らぎ」、仮に非存在によってしか実現可能できず、それでも少なくとも未だに救済への真なる希望が観念論の残り物として、ロマン主義として、神学と共に過ぎ去ろうとしているとしても、ショーペンハウアーにとって意志の否定はペシミスティックなものである。その場合、世界は、もはやあらゆる世界の恐怖とともに他なるもの(das Anderen)の理念、来世の理念を健全な思考によって認められた現実から開けたものとすることはなく、事実の構造そして唯一真実な構造として閉じたものとする、現れと見做されることはない。
⑧ペシミズムに関する教説は、生や地上、世界、とりわけ善があらゆる不道徳や貧困に負けず劣らず現実化しているように見えるものにとってと同様に、この世界におらずとももう一つの他なる場所にいるような可能性を信じているものにとっても、耐え難いものと見做されていた。神学だけでなく、偉大な哲学―プラトンからアリストテレスからイマヌエル・カント、それどころかバートランド・ラッセルや現代の他の実証主義者たちまで―もこうした諸概念の一部をなしていた。例えばオプティミストとしての不正を示すことはなかったものの科学的外交的には活発であったゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツなどの少なからぬ思想家たちは内的矛盾を抱えている。実践的と同様に理論的にライプニッツは、自分自身や他のもののために、つまりドイツとヨーロッパのために、科学と哲学のために活発な人間として影響を与えようとしていた。彼は進歩主義的で生真面目な人間の見本であった。しかし、一つの教説における核の暗い表象は、ライプニッツ以後と同様に、我々が知る残酷な世界が「あらゆる可能な諸世界で最高」であるとして思考されることを甘受せよ!そういった心情に向かってペシミスティックな思考の原理そして、無は何ものかよりはマシであるという信念は、矛盾を生み出していく。理想どころか無の概念は、信念の中で絶対者ないしカントが名付けた超感性的なものを規定することの複雑さの影に隠れることがない分析を必要としている。もはや生への意志によってでは支配されない精神が入り込もうとした無というのは、―上で言われたように―少しも何か(das Etwas)としての主観の概念などではない。仮にその概念が否定性として、現世もしくは来世、天国、浄福と同様に人間的な表象(die Vorstellung)と現れ(die Erscheinung)が結びついていたとしても、この概念は残り続けているのだ。宗教的な理念についてのショーペンハウアーの形而上学的理念は、単にあらゆる否定によってでは対置されず、人間に対してエゴイズムからの自由、献身、世界の中では確証ができないものへの信頼、もはやどこにも存在していないものへの信頼を要求している。しかしながら、仮に来世を正当に超えていくことがカント自身によって乗り越えられるとしても、普遍的な意志としての来世を明らかにすることは、超感性的なものの王国に走るためにカントによって述べられた禁令である。ショーペンハウアーは、自身が個人の否定性を超越的なものに転写することで、かすかな希望を、つまり経験の世界は未だ残滓としての単なる現れであるというカントの不可知論的な教説を抹消してしまったのである。
⑨哲学者ショーペンハウアーの仕事は時代遅れなどではない。ショーペンハウアーはそれ自体で信用できる認識としての科学に「然り」と答えている。現れの向こう側で全ての肯定的なものは否定され、それからそれは「輪廻、反復の信仰」いわゆる魂の遍歴、つまり「それ自身では不滅の意志の生きた幻想の連続」についての表象、要するに「常に新しい形式の中で教導され改善され、それ自身によって止揚される認識による表象であるというのだ。個人にとって根底にある「欲望と激情の座」である意志は、個人には悪質な本質に見えている。問いであるのは、そうした形而上学の中でどのように意志の担い手は、価値を失うことがない運命というものを思考できるのか、ということである。身体は生への意志によって支配されているのであって、ショーペンハウアー以後、「tropisch」な意味つまり比喩的な意味において理解された概念である魂(die Seele)によって支配されているのではない。この魂が死の中で意識と分離されるとき、魂の不滅はそれが実現したあとに、あれこれの惑星の上で、狼狽した個人にとって未知の出来事を形成せねばならない。専らこの事象は、ショーペンハウアーがすでにフロイト以前に個人の生において異なる要素と見做してきた無意識に関連している。また、どれほど彼の教説の中でいかがわしい再生が天国と地獄についてのキリスト教的な思想、つまりこの世を超越している正義に近づこうとも―、その都度認識している主体は、この世に生を受ける前ないし死後にその主体と結び付けられている個的意志の運命を、宇宙にある他の銀河の一つにおける主体には知られていない存在の実存の単一性と同じように体験することになる。また、ヘーゲルの克服後、「死は、自身が獲得される対自存在の中での分裂の一側面である」それゆえ、来たるべき自己(das Selbst)、「他の自己というのは、運動の中に入り込む存在者(das Seyende)として存在している」。悪しき世界での再生、無の始まりについてのヘーゲルのテーゼとともに『意志と表象としての世界』の著者は、他の宗教的理念と同様の超越的な正義を科学の無条件な承認と結びつけようとする、近代哲学の試みを継続していた。かつて来世における報いと罰としての現世の現存在を耐え抜いて生き残ろうとした自我(das Ich)は、死に瀕し、つかの間のものとなってしまった。すでに「意識における暗黒時代」の生の間に、自我は身体とともに完全に消滅せねばならない。
⑩個人の消滅しつつある社会的意味を前にして、自我についてのショーペンハウアーの判断もまた、現在の社会的傾向と調和している。彼が自我ではなく、人間と動物の両方を明らかにする生への意志を決定的だとすることは、彼のペシミスティックな哲学の根本要素を形成する。こうした移行の諸現象は、人間が動物よりも勝っている精神的諸性質ほど少なくはない。宗教、偉大な伝統ないし哲学の尊敬と同様に文化諸領域はそこに属しており、この諸領域が将来の管理された世界においてその機能を喪失し、未発達のものとしてあらゆる細分化とともに現れるだろうということは、すでに今日、それら領域の変化でもってその到来が予告されているのだ。神学を急速に自由主義化すること、美的なものが抽象的なものに転じること、科学の時代遅れの一分野としての哲学を把握すること、これらはそうした発展の徴候である。総じて現実的な目的によってではない方法で利己的あるいは利他的に根拠付けうるものは、いよいよ無知として現れることになる。感情を欠くプラグマティックなモチーフは情緒的であり、すでに述べたように、偉大な心理学にとっては病的と見做されている。少なからぬ動物でさえ持っている死者への忠誠心は、単なる本能や迷信に基づいている。さしあたり、社会常識や専門主義との恒常的に狭い結びつき、そして革命以来、厳密な認識と一般的な信仰の間で最小限に引かれた境界線を是認することからでのみ、科学は次のことを述べているようには思われない。すなわち、科学に固有の諸原理に従って、一神教に関わる信条が多神教に関わる信条よりも、魔女信仰つまり悪魔崇拝よりも、幻想についてのあらゆる種類よりももっともらしいということはない、ということだ。惑星上、最も洗練された種への人間性の道は続いている。理性の来たるべき発展は、科学に合致している。そうした発展とともに来世の理念を否定している信条を住まわせることは、思考する者にとって時流にかなっていると同時にぎこちないものである。ただし、そうした信条が実際に無を形而上学的希望にするのは別として。個人の現存在は、統計に反抗してますます取るに足らないように見える。過去と現在での不正、苦しめられた者の死、悪行を働いた人間の愉悦というのは、関係者のために、少なくとも犠牲者の自我のために最期の言葉を残すのである。
⑪世界を支配する本質を規定することができると考えていた全ての理論は、すでに史的となった。神学も偉大な啓蒙主義者の少なからぬ理論も公言してきた普遍的で最善の神の存在(die Existenz)は、真理の中で、絶対精神や普遍的意志、もしくは無ほど厳密に基礎づけられえはしない。どれほど現れの世界を超越するもの、つまり肯定的ないし否定的に無条件のものが眼前に現れようとも、それは次の洞察と矛盾することになる。すなわち、知性(der Verstand)によって是認された現実は、主観の合理的機能に広く基づいているし、それゆえ現れの契機としての自己を把握しうる、という洞察である。進歩が広範になればなるほど、それだけ信仰だけでなく他なるものへの真の憧れ(die wahre Sehnsucht nach dem Anderen)も危険にさらされることになる。あらゆる純粋実証主義的でない思考と知覚は、ますます人間性の幼年時代の現象として姿を現しており、その人間性は、個人の幼年時代ほどではないが、今日、決定的に制限されようとしている。子供時代と同様に老人は、若々しい青年に対して否定的になっているのだ。意識的であれ無意識的であれ、青年は厳密に具体的なものだけでなく、はじめから実践的な目的に関係があったわけではない思考と同程度に純粋思弁として証明するものに向かう実際に具体的なものも経験するわけではないのである。また、思弁が実証主義を超え出る限りショーペンハウアー哲学は、つまり超越的なものを追放する共苦と共喜の意義上の形而上学的意味ないし客観主義的哲学についての彼の教説よりも、平均的な知性を持つ人間にとって、ずばり父なる神への誠実さやそれと結び付けられた概念のほうが疑わしい。宗教的慣習は人口の大半に未だなんとか祝祭日の合理化として、場合によっては個人的交際の好機として役立っている。社会の現在の進路は、ショーペンハウアーが予感しはしたものの、なおも分析できなかったペシミズムの正当化である。人間の魂は自動機械的な、コンピューターと似通った機能にまで成長している。感情というものは、科学によって把握しうる現実としてのとある他の現実の近傍までほとんど達していない。人間的思考が純粋に道具的な活動に自己を制限せねばならないということが明らかになればなるほど、文化を維持することはショーペンハウアー的に言うならば「我々の知性が最高に惨めで、同時に罪深いということの告白(Eingeständ-nis)」に適合していくことが精密なものになっていく。仮に、過去の野蛮な時代以後、同一性が種属として機能している人間性の内に広がるとしたら、このことを補足することもできるだろう。
⑫ショーペンハウアーのペシミスティックな教説は慰め(ein Trost)である。今日の物の考え方とは対照に、彼の形而上学は、その深淵な基礎づけを、厳密な認識とともに矛盾、とりわけ超現実的な、永遠、善悪の精神の表象に迷い込まないための道徳に与えている。その表象によって限定されたものは、死の理念と自我の喪失の確証を結びつけるだけではなく、不安とも結びついているのだ。その不安は、この世もしくはある他の星にいるという生き物、つまり植物、顕微鏡ほどに小さいもしくは巨大な動物としての予想外の隔たり―時間は主観的である―の中で、それどころか生への失われた欲望に従って再び現存している。そうしたおぼろげな見解(予感)は、ずばり生きとし生けるものの同一性を指し示すし、死を前にした連帯(Solidarität)に従って全ての生物を基礎付けることができる。すべてのものは、なおも最も非力な存在者とともに一つである。意志の単一性についての教説は、今日伝統的な教義を統合する、近代哲学の論証よりも真面目な瞑想に近い。その教説は宗教と科学を宥和しようとしたし、この世を超越する創造主のために、諸宗派の社会的に限定された宗教的戒律を問いの内に置くことのない厳密な証明を展開しようとしたのであった。ショーペンハウアーは隣人愛どころか被造物をも、今日疑わしい諸宗派の主張や定めに少しも言及することなく哲学的に基礎づけた。彼の思想は科学を絶対視することほど完全にペシミスティックというわけではないのだ。
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