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ホルクハイマーに関する試訳を投稿していきます。

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最近の記事

M. Horkheimer「歴史への信頼」(1946)

①啓蒙〔Aufklärung〕の思考を前にして社会は、自然における歴史の主張という目的へ人間を同一化〔Vereinigung〕するものとして現れる。「必然性は人間を相互に馴染ませ、人間を同一化する」とモンテーニュは述べる[1]。そのさい、彼は古代の経験主義者を引き合いに出す術を心得ている。「続いて、この思いがけない同一性は、諸法則の中で変形される[…]」。これは、ヴォルテールによれば、情熱〔Leidenschaft〕や理性〔Vernunft〕とともに第一の存在〔Wesen〕を

    • M. Horkheimer 『道具的理性批判』ドイツ初版への序言

      人間にとって目標と見做されねばならない永遠の理念を聞き取り、吸収することは昔から理性〔Vernunft〕と呼ばれてきた。対して、その都度与えられる目標に手段〔Mittel〕を見つけることは、今日では理性の仕事というだけでなく、理性に本来的に備わる本質であると見做されている。一度達成したらそれ自体で手段にはならないような諸目標というのは、迷信として姿を現す。昔から神への服従が〔一方では〕神からの好意を得るための手段として、他方では支配や侵略、テロ行為についてのあらゆる方法の合理

      • M. Horkheimer「形而上学への最新の攻撃」(1937)

        ①科学と形而上学は互いに厄介なまでに一致している。形而上学においては、本質や実体〔Substanz〕、魂〔心〕、不死が話題になっており、科学は〔形而上学が〕この話題を企てていることをほとんど知らない。根本的に誰にとっても意のままにならざるをえない認識手段とともに、形而上学は、存在〔Sein〕を把握し、全体性〔Totalität〕を思考し、世界についての人間から独立した意味を描くことを要求している。あらゆる実存せしものの性質から、生に対する命令、例えば最高の理念もしくは超越的な

        • M. Horkheimer「歴史と心理学」(1932)

          ①歴史と心理学の関係は直近数十年の進展の中で多く論じられてきた。しかし、あなたがたは私に、文献においてなされてきた、一部には名高い議論についての報告は期待できず、今日問題を提供する、複数の観点を体系的に展開させることも期待しないでください。そうではなく、社会科学の現状に相応しい歴史理論の枠組みの中で心理学に与えられるべき役割を明らかにすることを期待してください。こうした目的のために、そこで用いられている歴史概念というものは解明されねばならない。つまり哲学では、歴史の、不均質で

        M. Horkheimer「歴史への信頼」(1946)

          M. Horkheimer「唯物論と道徳」(1933)

          ①人間の諸行為は善なのか悪なのかという問いを人間が独立して決定しようとすることは、明らかに後期歴史的現象である。高度に発達したヨーロッパ的個人は、単に重要な決断だけでなく、個人の生が大部分を構成する最も本能的で慣習になっている反応を明晰な意識の光に先立ってもたらし、道徳的評価を行うことができている。その一方で人間の諸行為は、強制的になればなるほどそれだけ行為の主体を初期歴史的に形成することと密接に結ばれているように見える。道徳批判の衝動的な反応を混ぜ込み、個人の懸念に基づいて

          M. Horkheimer「唯物論と道徳」(1933)

          M・Horkheimer「絶対集積の哲学」(1938)

          ①マルク[1]の新刊は明らかにあるイデオロギー、ドイツ内外におけるいくつかの対立集団が同意せねばならないイデオロギーの構想、世界観的な統一プログラムの性質を描き出している。多くの類似した試みを前にして本書は特別な批判を挑発することはない。明確にあらゆる行間から語っている目的に相応しいことを個々の行間の中で検討することは、いずれにせよここでは課題になりえない。しかし、マルクが常に実践し、本書で繰り返し素性を明らかにしている誠実なものの考え方は、我々がこの論文で本書に取り組むこと

          M・Horkheimer「絶対集積の哲学」(1938)

          M. Horkheimer「社会科学における予言の問題」(1933)

          ①問いがその討議についての社会学的予見(Voraussicht/ prévision)に従って根底に置かれてきたことはすでに次のような理由から、より良い思考である。すなわち、社会学でさえ普遍的で文化的な危機に参与してきたことが、そうした予見の中にとりわけ明らかに姿を現しているという理由からである。予見の可能性は、現実的なものについてのあらゆる科学にとって試金石である。現在の歴史的状況において社会学に向けられているような強大なエネルギ―は、原理的に過去を筋の通るように配列しよう

          M. Horkheimer「社会科学における予言の問題」(1933)

          M・Horkheimer「唯物論と形而上学」(1933)試訳

          ①ヨーロッパにおいて古代から登場していた哲学的直観についての研究からディルタイはとある洞察を得ていた。それは、あらゆる形而上学的な試みはある単一で普遍妥当なシステムを打ち立てることを、この点で歩みがそうした試みにとって前進的に今日までうまくいくこともなく目的としているという洞察である。事実この歩みそれ自体が世界観の型を分離することを企てるが、それゆえこの歩みはまた、それによって適切に表現された区分の主観的な性格をも強調する。あの普遍妥当なシステムの不可能性についての信念は、個

          M・Horkheimer「唯物論と形而上学」(1933)試訳

          M・Horkheimer 『道具的理性批判』(ドイツ語初版)序言(1967)試訳

          人間にとって目的だと見做されることになっている永遠の理念を問いただしそれ自身のうちに吸収することは、昔から理性と呼ばれている。それに対して、その都度偽られた目的のために手段を見つけ出すことは、今日では理性の商売事というだけでなく理性に固有の本質であると見做されている。かつて達成していた手段にすらならない目的などというものは迷信として現れている。神への服従が昔から神の好意を手に入れるための手段として用いられてきた一方で、支配や侵略のための出兵、テロリズムのあらゆる方法の合理化と

          M・Horkheimer 『道具的理性批判』(ドイツ語初版)序言(1967)試訳

          M・Horkheimer「科学と宗教に関するショーペンハウアーの思想」(1971)試訳

          ①近代哲学史において、ショーペンハウアーの著作はペシミズムの原型と見做されている。「…死がそれほど恐ろしくないのならば、誰がそのような生を耐え抜くのだろうか?―そして、生が喜びであるのならば、誰が死についての考えに少しでも我慢できることがあるだろうか!と同時に、しかし、依然としてあらゆる死は生の終わりのために善を保持し、我々は死とともにある生の苦しみと、生の苦しみとともにある死についての慰めを自身に与えるのだ。この両者というのは、それから逃れることがどれだけ願わしいことである

          M・Horkheimer「科学と宗教に関するショーペンハウアーの思想」(1971)試訳

          M・Horkheimer「今日のペシミズム」(1971)試訳

          大統領のお言葉に感謝します。今、私の念頭にある「今日のペシミズム」の理念についてお話しようと思います。 まず、ペシミズムの先史を指摘しましょう。すでに古代人はペシミズムを心得ていました。紀元前三世紀には(キュレネの)ヘゲシアスという、自殺が彼にとって正しい答えのように思われる世界を見てきた思想家がいました。彼の門下生は少しもこの帰結を歪めようともしませんでした。後に、ヘゲシアスは存命中にそのことについて繰り返し非難され、黙殺されていました。仮にヘゲシアスと懇意にしていたエピ

          M・Horkheimer「今日のペシミズム」(1971)試訳

          M・Horkheimer「完全な他なるものへの憧れ〈ヘルムート=グムニオールとの対談〉」(1970)試訳

          グムニオール:「現実の自由主義におけるあらゆる無限の概念は、この世の出来事の決定的な意識として、人間を修正不可能にまで見放す意識として維持し続けている。そしてこの概念は、社会を忌々しい楽観論から、新たな宗教としてそれ自身が了解している広がりから守っているのだ」この文章をマックス=ホルクハイマーは35歳の時にアメリカの亡命地で書いています。彼は当時、一年以上も前からニューヨークにいました。理論の創設者が生産過程としての社会活動を理解しようとした時、依然としてホルクハイマーは目下

          M・Horkheimer「完全な他なるものへの憧れ〈ヘルムート=グムニオールとの対談〉」(1970)試訳

          M・Horkheimer「楽観論者としてのショーペンハウアー」試訳

          ショーペンハウアーは決定的に楽観論者であった。また、世界の苦しみはライプニッツやヘーゲルまでの形式ばった楽観論を否定することはなく、独善的な形而上学というその場しのぎのでたらめを付加的に創作するだけであった。カントだけが単なる希望としての最高善を叙述したものである。ショーペンハウアーにおいては、生への意志の否定、つまり苦しみの終焉は個々の罠の中で形而上学的実在性として要求されている。また、ショーペンハウアーによって他の言葉を用いつつ、原罪のような何か、つまり孤独状態からの個々

          M・Horkheimer「楽観論者としてのショーペンハウアー」試訳

          M・Horkheimer 「 科学と危機についての覚書」(1932)試訳

          ①科学は社会のマルクス理論においては人間的な生産諸力に数えられる。先進諸国自身の中で低層階級に属する人々に与えられる自然や人間世界についての簡単な認識形態以後、過去数世紀にわたって科学とともに発展してきた、思考の通常の変遷の条件として、とりわけ、彼らの諸発見が社会的生活の形式に決定的に参与する研究者の精神的な能力の構成要素として、科学というのは、現代産業システムを可能にしている。科学が社会的諸価値を生み出すための手段として、つまり、生産形式における手段として公式化している限り

          M・Horkheimer 「 科学と危機についての覚書」(1932)試訳