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お金は欲求の二重の一致を妨害している【アンチワーク哲学】

Aさんが芋が欲しい。芋をたくさん持っているBさんはバラが欲しい。しかし、Aさんは靴しか持っていない。AさんとBさんが取引を成立させるには、欲求の二重の一致が必要であり、それはなかなか成立しない。だから、貝殻や布といったものを価値の媒介として選定し、それがお金になった。お金は欲求の二重の一致という問題を解消した。

これがいわゆる物々交換の神話である。このような物々交換をしている社会はこれまで発見されたことはないが、これは経済学の基盤となっている神話なので、いつまでもなくならならず「二重の一致がどれだけ難しいか(だからお金は必要なんだよ~)」と説得しようとするプロパガンダ装置まで登場している。

僕とてお金のメリットを完全に否定するつもりはない。だがそれは欲求の二重の一致を解消できるからでは決してない。むしろ逆である。お金は欲求の二重の一致を妨害していると僕は考えている。

どういうことか?

たとえばお金のない世界で、Aさんが芋を欲しがったとき、芋をたくさん所有しているBさんはどのように反応するだろうか? AさんとBさんの関係や状況にもよるが、たとえば生きるための食べ物があふれるほどに豊富にあるBさんの村にAさんがふらっと旅してきて「なんだか芋が食べたい気分なんだよねぇ」と言った状況だとしよう。Bさんはこう思うに違いない。

おれの自慢の芋を味わってもらうチャンスがきたぞ!

このときBさんにとってAさんに芋を食べさせることこそが欲求の対象である。そしてAさんは言わずもがな芋を食べたい。ならば、すでにこのときAさんとBさんは欲求の二重の一致を達成しているのだ。

では、芋のようなありふれたものではなく、丹精込めてつくられたテーブルだったらどうか? Bさんが家で使っているテーブルをAさんが気に入ったとしても、Bさんがそれを渡してしまえばBさんの家からテーブルがなくなってしまう。なら「これはCさんからもらったテーブルなんだ。Cさんならテーブルをつくってくれるんじゃない?」と言うだろう。そしてまたAさんはCさんからテーブルを受け取り、欲求の二重の一致を達成するのである。

逆にお金がある社会ならどうか? それでも趣味の家庭菜園でとれた芋がたくさんあるならBさんはAさんに芋をプレゼントするかもしれないが、Bさんが芋農家だったなら話は変わってくる。芋を欲しがるAさんに芋をプレゼントしたいのはやまやまだが、誰も彼もに芋をプレゼントしていたら生活が成り立たなくなってしまう。だからAさんが芋を欲しがっていたとしても、ただで渡すわけにはいかない。一方、Aさんはできることならお金をあまり払いたくない。しかし、お腹が空いていたのでやむを得ずお金を払って芋を受け取ることにする。

ここではなにが起きているのか? Bさんはプレゼントしたいという欲求を妨害され、Aさんはお金を払いたくないという義務を負わされる。無償の贈与だったなら、欲求の二重の一致が達成されお互いにウィンウィンだったのに対し、お金が存在することによって欲求の二重の一致が妨害されてしまうのだ。

ここまでをみて物々交換の神話が、「人は誰かに貢献することを欲求することはあり得ない」と前提していることに気が付くはずだ。芋をプレゼントすることは決して欲求の対象ではあり得ず、常にマイナスである。そして人間は、芋よりもより価値があると感じる別の財に交換することで常に物質的利益を得ようとしている。というわけだ。もしそうなら、どんなに世界はシンプルだっただろうか。

実際は、人間は貢献欲を持っている。他者への貢献が喜びであることは疑いようがない。だが先述の通り、お金は貢献欲を妨害する。その結果、貢献欲を満たせずに苦しんでいる人が大勢いる。それが、現代の病理である。

変えるべきは、人間観であろう。人間がなにを欲して、どんな行動をとるのか。アンチワーク哲学はその根本的な誤解を覆す営みである。覆したい。


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