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ワーキッシュアクトは労働なき世界への一歩となるか?【アンチワーク哲学】

労働の廃絶を目指してアンチワーク哲学を提唱する僕だが、「誰も道路を整備しなくなればいい」とか「誰も老人のオムツを替えなければいい」などという破滅的な思想を唱えているわけではない。むしろ、そのようなエッセンシャルな機能が社会から失われつつある状況を打破するためにも、労働の撲滅を訴えているのである。

そういう意味では、エッセンシャルワーカーの人手不足と、それに対する打開策を提示するこの本は、僕の問題意識と重なるところがあった。そこで手に取ったわけだ。

(著者は、業界内では比較的質の高い分析を提供してくれることでおなじみのリクルートワークス研究所である。)

本の構造を説明すると、まず前半は現状分析である。定量的なデータをもとに「この業界は何年に何%の人手不足になりそうだ」的な話を、深刻な危機感とともに解説してくれている。

これは単なる人手不足論ではない。後継者不足や技能継承難、デジタル人材の不足などといった産業・企業視点からの問題だけではなく、「生活を維持するために必要な労働力を日本社会は供給できなくなるのではないか」という、われわれ生活者の問題なのである。

p21

これは切実な問題であると同時に、多くの日本人には切迫感を持って伝わっていないであろうと思われる問題である。老後二千万円問題であれ、社会保障費の問題であれ、「金が足りない」という問題意識は共有されていても、金があってもそもそも供給能力が足りなくなるという危機感は、広く浸透しているとは言い難い。

(余談だが、財源ではなく供給能力にフォーカスを当てるMMT理論は、現実に差し迫った問題を炙り出すいい思考の種になると思われる。だが、残念ながら、MMTの批判者は財源問題ばかりを論っているのが現状である。)

そして後半は、予想される問題の解決策が提示されている。大きく分けて二つあり、一つ目は「機械化や効率化を進めつつ、過剰サービスをやめるような無駄の削減」である。うんざりするほど聞かされた話であり、「そりゃあそうだろうなぁ」という以外に感想はないので一旦スルーする。

重要なのは二つ目の解決策ワーキッシュアクトである。

※ワーキッシュアクトについては、ここに詳しいことが書いている。

簡単に説明すれば、「趣味の遊びが結果的に人の役に立っているような活動」といったところだろうか。

本書で例として挙げられているのは、『TEKKON』というアプリを通じてマンホールや電柱の写真を撮って送信する活動だ。これにより、もともとメンテナンス業者が点検して回っていた手間が省かれ、業者は効率的にメンテナンスができるというわけだ。

あるいは、要介護者の老人と世間話をワーキッシュアクトとして担えば、専業の介護スタッフが業務に専念できるようになるとか、そういう活動も本書では例示されている。

ほかにも町内会への参加や家庭菜園、交差点の見守りといった活動も挙げられている(正確に言えばワーキッシュアクトと、町内会への参加などのシニア活動が本書では分けて論じられていたのだが、ひとまとめにして理解しても問題ないと思われる)。

こうした活動は、ボランティアといった崇高な活動ではなく、労働の合間に気軽に参加できる必要があるという。また、金銭的な報酬がある場合もあれば、ない場合もあるが、いずれにせよ貢献による満足感やコミュニティへの参加といった、なんらかの報酬が必要とのことだ。

さて、ここから先はかなり本書の議論はアンワーク哲学に接近していく。

ワーキッシュアクトはエンタメと融合したり、より楽しく豊かに実施される可能性が十分にある。別に誰かの需要を満たすことが苦役である必要はない。(中略)現在は必要なシステムやプラットフォームが未整備であるために、誰かのつらい労働や善意・共助に頼りきりになってしまっているのではないか。

p197

もし人間が、「活動」としておこなっていることで「労働」を代替できるとすればどうだろう。「活動」によって「労働」のつらい部分をなくせるとすればどうだろう。アレントは人間の行動が"労働が遊び"かの2区分でしか見られなくなってしまったと言っているが、"遊びが労働の代わりになる"仕組みがつくられたらどうだろう。

p243

つまり、ワーキッシュアクトは単なるやりがい搾取として成り立つのではなく、貢献やコミュニティで役割を持つことが喜びであるという人間理解へのパラダイムシフトを起こしていくという見立てである。

この観点が、今後の社会において重要であることは間違いない。というか、アンチワーク哲学がやりたいことの一つは、そのパラダイムシフトを起こすことなのだ。そもそも人の役に立つことは喜びであり、社会の中で役割を持つことは喜びである。それ自体が人間にとっての欲望の対象ですらある。この当たり前の人間理解を、当たり前のことへと変えていきたいのである。

しかし、ここで問わなければならないのは「なぜこの人間理解が当たり前でないのか?」であろう。ワーキッシュアクトを自然と楽しめる傾向が人間に備わっているなら、なぜワーキッシュアクトはそこら中にありふれていないのか?

奇しくも本書ではその答えにたどり着いている。

片手間でできることも重要だ。本業の仕事以外にプラスアルファでおこなえる活動を、誰かの何かを助けるために”転換”するのだ。そして、本業の仕事でしっかりと収入を得ている人がワーキッシュアクトをすることで、本業の仕事で得られないものを獲得する発想である。

p182

リモートワーク機会があることとワーキッシュアクトの実施には強い関係があった。

p189

ほかにも社員のボランティア支援制度や、社員間交流の支援制度、目的を問わない長期休暇制度、副業・兼業を認める規定など、会社が制度を整えている場合にワーキッシュアクトに取り組みやすいことが示唆される。

p191

世帯の経済見通しについては、「楽になる」と答えた人のほうがワーキッシュアクトの実施率が高くなる傾向にある。「衣食足りて礼節を知る」とよく言われるが、経済的に見通しが立った状態のほうが取り組みやすいのは間違いない。

p192

つまり、リモートワークを実践して、高い労働生産性を誇り、様々な福利厚生が整えられ、将来への見通しも明るいホワイトカラー企業の社員の方が、ワーキッシュアクトに参加しやすいというわけだ。

裏を返せば労働生産性が低く、低賃金と長時間労働のコンボに苦しめられているようなエッセンシャルワーカーはワーキッシュアクトになど参加しようがないことになる。

要するに、貧乏暇なしである。

なら、彼らがワーキッシュアクトに参加するにはどうすればいいのか? 本書の回答は「効率化して生産性を高めよ」である。全国の経営者の皆さんは「それができれば苦労しないよ」とため息をついている頃だろう。

さて、ここに本書の最大の問題点が潜んでいるように思われる。

本書は、利益を生んでいるという意味で「生産性」という言葉を使用しているが、利益を生む活動ならばそれはおしなべて社会に必要な貢献であるという前提を無意識のうちに置いている。物理的生産性と金銭的生産性を混同しているのだ。

なるほど、鼻くそをほじりながらピンハネをして月収百万円を得て、毎日定時退社し、有休をたっぷりとっている大手企業の管理職がいたとすれば、彼はいとも簡単にワーキッシュアクトに参加できるだろう。本書の基準では、彼は素晴らしく社会に貢献していることになる。

しかし、日本のエッセンシャルワーカー不足やエッセンシャルワーカーが貧乏暇なしに追い込まれていることの原因は、あきらかに彼のような人物を生み出すシステムなのだ。

この世界でもっとも生産性の高い労働はピンハネである。労働生産性をあげるには、ピンハネビジネスを考案する方がいいのだ。派遣スタッフとして働くよりも派遣スタッフを何万人もエクセルシートで管理している方が儲かるし、イオングループは真面目に野菜を売るよりもポイントをちらつかせてクレジットカードを契約する方が儲かる。知り合いの物流企業の社長は、土地を買って倉庫に投資をしようとしたら、銀行員に鼻で笑われたという。「そのお金で株でも買ってた方が儲かりますよ」と。

そしてピンハネのプロセスで、無意味に需要を煽り立てて、無意味に売り込み、無意味に競争し、結果として政治活動や管理業務(≒ブルシット・ジョブ)が労働を埋め尽くそうとしている。本書は、こうした労働問題の一丁目一番地がノータッチなのである。

この問題を解決しないままであれば、本書の提案は次のように受け止められることになる。本業で効率的にピンハネをした者だけが、ワーキッシュアクトに参加し、他者に貢献するやりがいや、高い人格者としての評判、地域へのコミュニティ参加権を得られる。

つまり貧乏暇なし状態が、道徳的にも非難されるような事態である。

どう考えても解決すべきは、搾取しなければ金や時間に余裕が生まれない構造そのものではないだろうか? それが解決されないのなら、ワーキッシュアクトなど意識高い系による理想論にすぎない

ワーキッシュアクトの例として先述した『TEKKON』のアプリのレビューを見てみれば、そのことは明らかである。このシステムは単なるやりがい搾取的なポイ活としてしか見られていない。

実際、やりがい搾取である。企業の都合のために人々がタダ同然で働かされているのだ。その人々は、食い扶持を稼ぐために日々、馬車馬のように働いている。金を持っていなければ、金の儲からない活動に参加する余裕などない。金の儲からない活動に参加して欲しければ、まずは金が必要なのだ。

なら、解決策はひとつだろう。万人に金を配るしかない。ベーシックインカムである。

ベーシックインカムがあれば人々はブルシット・ジョブによる搾取活動に参加する必要はない。人に貢献したいと思う気持ちのままに、人に貢献すればいい。そうしても食い扶持は失われないのである。そうすれば、社会全体から無意味な労働が削減されるだけではなく、有意義な活動が満ち足りてくるはずだ。

労働の非効率も、徐々に改善されていくだろう。本書では「お客様は神様」的なサービス過剰を何度も攻撃していたが、お客様がなぜ神様なのかが考察されていない。お客様は貴重な金の供給源であり、逆らうことが許されていないからだ。BIによる生活保障があれば、過剰サービスを低減させていくことも徐々に可能になっていく。無意味な会議やモンスタークライアントに取られる時間もバッサリ削ることができるだろう。

このような動きが行き着くところまで行きついたら、ワーキッシュアクトのような楽しい活動で労働時間をすべて代替できるだろう。人々は遊び感覚で他者に貢献し、社会が成立している。アンチワーク哲学の定義では、それはもはや労働ではなくなっている。これがアンチワーク哲学のやりたいことである。

本書が提案したワーキッシュアクトという概念自体は悪くない(リクルートは新しい概念を生み出すことが上手い。それが飯の種だからと言ってしまえばそれまでだが)。だが、問題を見誤っている。労働それ自体への徹底的な考察が足りていない。言い換えればアンチワーク哲学が足りていない。

必要なのは表面的な解決よりも、根本的な解決なのだ。哲学という営みに意味があるとするならば、前提となるパラダイムを疑ってかかることができる点にあるのだろう。

結論、ワーキッシュアクトは労働なき世界への第一歩目にはならない。二歩目、三歩目に自然発生する者でなければならないのだ。一歩目には、金のために労働しなければならない状況の解決が必要である。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!