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コスパ見せびらかし消費に熱中する主婦たち【雑記】

この前テレビをみていたら、野菜詰め放題で何円分の野菜を入れられるかを競い合う企画をやっていた。主婦たちは腕まくりをして、張り切っている。そして「土台をつくらなあかん」とか「花を咲かせるように重ねていくねん」とか「単価が高いなすびを中心に・・・」とか、様々な理論を展開しながらみちみちに野菜を詰め込んでいく。

テレビの企画なので、おそらく実際にその主婦たちが野菜を持って帰るわけではないし、間違っても自腹で購入しているわけではない。なら、なぜこんなに必死になるのか、よくよく考えれば意味不明である。

普段、彼女たちが野菜詰め放題に夢中になるのは、コスパ主義の観点から説明がつく。しかし、まったく同じだけの情熱を、この企画に向ける事態は「コスパ主義」だけでは説明がつかない。

おそらく主婦の人生は、「いかにコスパのいい買い物をする自分を演出するか」という競技に切り詰められていくんだろうなぁと思った。あるいは家事の効率もそうだろうか。主婦はダイソーとコストコでコスパよく買い物をし、時短グッズや時短レシピで時間を浮かせることが大好きだ(これを僕はコスパ見せびらかし消費タイパ見せびらかし消費と呼んでいる。ダサくなってきた見せびらかし消費のオルタナティブとして現れた、新種の見せびらかし消費である)。

だからこの企画は、普段からコスパよく買い物をしていることを周囲に知らしめるチャンスとして、盛り上がるのだ。それは普段の買い物がもはやコスパとは何の関係もない競技と化していることを示唆していると言える。そう考えれば、数円のためにガソリンを消耗して車を走らせる主婦もバカにすることはできない。彼女はガソリンをいくら消耗しようが、「数円を節約した」というコスパ見せびらかし消費の競技を行っているのだ。

(そう考えれば「業務スーパー」というネーミングは天才的だと思う。プロレベルのコスパを追い求める快楽がそこでは手に入るのだという予感が「業務」という言葉の中には詰め込まれている。)

コスパ主義やタイパ主義は、合理性を神とする現代人にとっての福音だった。人間の人生は基本的に非合理な行動で埋め尽くされるものだが、合理性の神の前ではそれは許されない。しかし、コスパ主義やタイパ主義を信仰するなら(それがどれだけ不合理であろうが)合理性の神に認めてもらえる。多くの人々がそれに飛びつくのは当然だろう。

その結果、主婦たちは、コスパよく買ってきたコストコの食材を惜しげもなく家族や友達に配るのである。「これ、安かったから」と。「配ったら安くならないじゃん」と思いつつもありがたく受け取る。彼女は「コスパの良さを見せびらかす」という欲望と「家族や友達に貢献したい」という欲望を同時に叶えることができる。別に自分で食べたいわけではない。そういう意味ではコスパのいい買い物なのかもしれない。

僕は別に批判しているわけではない。僕もコスパを見せびらかすのが大好きで「このシャツいくらやと思う?」「二千円くらい?」「五百円(どやぁ)」というやりとりをよくやっている。

とはいえ、人々のクリエイティビティが、単なる買い物に切り詰められている状況は、果たして幸福なのだろうかという邪推も生まれてくる。僕は常々、人間は自らの意志で主体的にプロジェクトに取り組みたいという根源的なエネルギー「力への意志」を持っていてそれを労働において持て余していると主張している。彼女たちの力への意志はコスパのいい買い物に向かって、なんとか発散させられているわけだが、もっといろんな可能性があったのだと思うと、もったいない気もする。

好きならいいんだけどね。もっと人間の可能性を活かせる社会になればいいのになぁと思う今日この頃。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!