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金と財務省とBIに関する殴り書き論考【アンチワーク哲学】

この前、僕はぼそっと呟いた。

詳しく説明しよう。

財務省やそれに追従するメディア、あるいは増税大好き某メガネは次のような論調で語りがちである。

「日本は国債発行額が大変なことになっていて、国民一人当たりうん万円の借金がある。だから増税しなければならない。そうしなければ将来世代にツケが回ることになる」

いわゆる財政均衡論である。

その結果、国民は消費税やインボイス、社会保険料でじりじりと搾り取られているだけではなく、明らかに必要な復興予算もケチケチ出し渋られている。苦しんでいる人が救われる兆しは一向に見えてこない

もし本当に財政均衡論が正しいのであれば、百歩譲ってこの苦境も理解できなくもない(仮に将来にツケが回るのだとしても、復興には力を入れるべきだと思うが)。ただし、「もし、正しければ」の話である。

日本政府が発行する国債はその約半分を日銀が保有しているし、その気になればもっと買い取ることができる。そして、日銀は国債を買い取る際に、通貨をこの世界にゼロから生み出すことになる(・・・ということであっているよね?)。

となると、財政均衡論者は不思議なことを語っていることになる。

将来世代が借金を返さなければならないのは、無制限に金を生み出すことが可能な日銀に金を返すためなのだ。果たしてそんなことをする必要があるのだろうか? 日銀に金を返すために、金沢の復興が進まず、貧困者や子育てをする親たち、その他の人々が苦しめられる。そんなことが起きていいのだろうか? 好きに発行できるのだから、日銀に積みあがった国債のことなど気にしないでいいのではないか? 政府の借金など、永遠に借り換え続けて日銀に積み続ければいいのではないか? というか、日銀は単に通貨を発行しているだけであり、それは借金と考えるべきではないのではないか?

(というか、仮に財政均衡論者が正しいなら、国債を経由せずに金を発行するべきではないか? 債権者の土手っ腹を肥やすために人が苦しむことが正当化されるシステムを残し続けることの方が、将来世代のツケになるのではないか? 通貨発行するたびに通貨全体からピンハネするオッサンが増え続けるシステムはどう考えてもイカれてるだろうに。)

財政均衡論者はこれに対して、為替やら利子やらと絡めて「いやいやハイパーインフレが‥」と反論を行う。僕は正直細かいことはよくわからない。だが、森永卓郎が言うように、これは「もしかすると日本が崩壊するかもしれない!」という不安を煽り立てて国民を搾り取る、国家ぐるみのカルト宗教(ザイム真理教)であるという印象を拭い去ることはできない。そして、森永卓郎が正しいのだとすれば、暴動が起きてもおかしくないレベルの詐欺であることは間違いない。

しかし、暴動は起きていない。財政均衡論への批判は国民に徐々に広まっているように見えるにもかかわらず。だから僕は上記のようにつぶやいたのだ。

すると、とあるお方からリプがきた。

どうやら10人程度の小規模ではあるものの、経済政策アナリストの池戸万作さんという方を中心に、反財政均衡論のデモ活動が定期的に行われているらしい。

彼のことをよく知らなかったので、軽く調べてみると、どうやらMMT理論を背景に積極財政を唱えている論者の一人であり、社会保障を据え置きにしたベーシックインカムにも賛成しているようだ。

ざっと見た印象だと経済成長を主眼においているようで、その点は僕とは価値観が異なるものの、結果として主張する政策は同じである。それに、敵の敵は味方である。ありがたいことにデモに誘っていただいたので、ぜひ近いうちに参加したいと思っている(いま関東に行く用事が山積みになりつつあるのだ)。

さて、今回は「日本も捨てたものではないなぁ」とぼやくだけの記事ではない。僕は、ここまでの財務省批判の議論に、アンチワーク哲学の観点から援護射撃したいのである。少し遠回りするが、詳しくみていこう。


■金とは権力である

まず第一歩目として考えたいのは、「金とはなにか?」である。いろんな考え方が存在することは承知しているが、その中でもアンチワーク哲学では貨幣権力説という考え方を採用している。一言で言えば「金とは、人を強制させる権力である」という考え方である。

これは金がどのように機能するかをみれば導出される妥当な結論であるように思われる。たとえば僕たちが金を使う場面を考えてみよう。マッサージ師に金を払えば、半ば強制的にマッサージをさせることができる。リンゴ農家に金を払えば、半ば強制的にリンゴをつくらせることができる。

いや、自由な契約なのだし、転職することも、契約を断ることができるのだから、権力でないし強制でもない」と言う反論もあるだろう。だが、その理屈で言えば拳銃を突きつけられようが命令を拒否することは可能だ。だからといって拳銃を突きつけられている人が「強制されていない」と言えないはずだ。実際に、カスタマーハラスメントが問題視され、店員側がそれを拒否できないと感じているのは、そこに権力構造があるからに他ならない。金がないと生きていけないと多くの人が感じている以上、金とは強制のツールとして機能しているのは明らかである(もちろん「お客様は神様」という文化的な背景も一因であるが、根本的に金を払う側が受け取る側に対して強気に出る構造が存在することは疑いようがない)。

会社が労働者を雇用する際も同様だ。金を払えば、九時から十七時まで(あるいはそれ以上)、命令に従わせることができる。たしかに、ちょっとやそっとなら上司や社長にも反論はできるだろう。だが、多くの会社員は彼らの命令に逆らうことはできないのである。そうでないのなら、理不尽なノルマのためにお店の前に除草剤を撒いたり、ゴルフボールで客の車をへこませたりするような人がいるはずがないだろう(ただしここで行われているのは、「なにがなんでもノルマを達成しろ。そのためになにをすればいいのか自分で考えろ(なお、自分で考えた結果、除草剤を撒くことになるのなら、それは俺が命令したのではなくお前が勝手にやったことなのだ)」という命令であって「除草剤を撒け」という命令ではないことに注意しなければならないが)。

パワハラセクハラも、このことから理解できる。ジャニーさんに性加害されても拒否できないのは、ジャニーさんに気に入られなければデビューできず、将来の食い扶持が失われるからだ。基本的に金を所有する人物、あるいは「誰に金を誰に流すか」を決定できる人物は権力者になる。この傾向は、世界中を覆い尽くしている。

このように考えれば、財務省による国家ぐるみの詐欺がなぜまかり通っているのかが説明がつく。財務省はどこに金を流し、どこに金を流さないかを決定できる権力を握っている。兆単位の金の行方を決定できる人間が目の前にいるなら、全裸で腹踊りをしろと言われても従うのがふつうだろう。なら、彼らの権力を維持するためのプロパガンダ(財政均衡主義)が正義になるように、太鼓持ち経済学者が群がるのは当然である。


■金が権力として機能するのはなぜか?

さて、「金=権力」という考えにはいったん同意してもらったこととしよう。次に考えなければならないのは、「金が権力として機能するためになにが必要か?」である。

三つの考え方がある。まず一つ目の論点は、MMTが提唱する租税貨幣論だ。これは、金が金として機能するのは、国家が税を払わない者を暴力で脅しつけて刑務所にぶち込む能力を保持しているからという考え方である。刑務所にぶち込まれたくない人々は、税を払うために金を追い求めずにはいられず、結果として金に価値があることをみんなが認めざるを得ない、という説明だ。

現代人からすればピンと来ない理屈だが、国家の創成期に思いを馳せればすんなり理解できる。自給自足の贈与経済で暮らしている人々に、ある男が「おれのために道路をつくれ」と言ったところで、「なんでそんなことをせにゃならんのだ?」と反発されるのがふつうである。そこで彼は武装してからこう言うのだ。「おれのために道路をつくれ」。しかし、つくる人もいたけれど、常に槍をつきつけ続けるわけじゃないので、逃げ出す人の方が多かった。困った困った。ということで次はこう伝えることにした。「これ、金だから。金を払うから道路をつくれ。ちなみに金は後から税として回収するからよろしく。税を払えない奴はぶっ殺す」と。こうすれば、全員に槍をつきつけ続けなくても、税を払わなかった奴をシバくだけで済んだ(それでも逃げ出す奴が多いから万里の長城はつくられた‥なんて話もある)。こうして金は万人の欲望の対象となり、金として流通し始める。むしろ暴力なしで金を金として機能させることはむずかしかっただろう

ところが現代となっては話はかわってくる。国家創成期の人々と違って僕たちは自給自足の贈与経済で暮らしていない。だから、生きていくために金が必要になる。これが、二つ目の論点である。非自給自足的であるがゆえに、人々は金をはじめから欲望する。実際、現代においては収入がない人はほぼ課税されないので、租税貨幣論だけですべてを説明すれば、彼は金を欲しないことになる。それでも欲するのは、彼が自給自足できないからである。

そして三つ目の論点である。金が権力を発揮するためには、金が貴重なものでなければならない。言い換えれば、金を持っている者(≒誰に金を流すのかを決定できる者)と、そうでない者の非対称性がなければならない。万人がビル・ゲイツ並みの金を持っていたなら、時給千円でハンバーガーを焼かせようとするのはむずかしい。

金が貴重だからこそ、貴重な金の流れを決定できる財務省は権力を握ることができる。逆に「金は理論上無制限に生み出せる」ということが大っぴらになれば、財務省が金を出し渋って増税しまくることで権力を握っている現状を正当化できない。だから、金を貴重なものであるという財政均衡主義のプロパガンダを展開するのだ。


■権力のなにが問題か?

財政均衡論が金を貴重であるように見せかけた結果、金をたくさん所有する人や金の流れを決定できる人物が、金がなくて苦しんでいる人たちに対する権力を発揮するようになっている。

さて、ここで冒頭の議論に帰ろう。なぜ僕が財政均衡論に反対するのか? それ財政均衡論によって「金が貴重である」という幻想と、幻想から生み出される権力が維持されるからである。

権力はこの社会において膨大な問題を引き起こしている

パワハラ、セクハラ、カスハラ、ありとあらゆる不祥事、DV、ブルシット・ジョブ、環境破壊、虐待、いじめ、過労死、精神病‥こうした問題の大半は権力によって引き起こされている(詳しい話は後述する)。

そして、そもそも権力とは不愉快である。人に命令されればイラっとする。高圧的な人を見たらぶん殴りたくなる。この点に異論はないだろう。

さらに権力によって強制される状況は、その行為に対するモチベーションを著しく損なう。この点も異論はないだろう。

友達同士で自発的にバーベキューに取り組んだとき、参加者全員が満足して帰ることになる。だが、そこに「おれが全部金を出すからおれの言う通りに働け」と命令する男が現れたなら、最悪の一日を過ごすことになる。そして、その権力者すらも、極上の幸福を味わうわけではない。彼は誰とも心を通わせることのない孤独に打ちひしがれるのである。

権力を振るわれる側は基本的に不幸になる。逆に権力を握ったからと言って幸福になるとは限らない。権力は万人を不幸にしてしまうのだ。ゆえに、権力は人類にとって害悪であると僕は考える(せめて権力者くらい幸福であって欲しいものであるが、残念ながらそうではないのである)。

権力者が有益な目的に権力を振り向けるならまだマシである。たとえば、被災地の復興や子育て支援、貧困者への施し、環境保護などなど。しかし残念ながらそうはなっていない。いつも権力は権力者たちを肥え太らせてばかりで、困っている人は救われないのである。だったら権力など取り上げてしまうべきだろう。


■金を配る=権力を配る

では権力を取り上げるにはどうすればいいのか? 簡単である。金を貴重ではないものにすればいいのである。なにがあっても食べていける自給自足的生活を擬似的に達成させればいいのである。ベーシックインカムである。

ベーシックインカムは、万人に権力を配布する営みであると理解することができる。それはつまり「権力に屈しないでいられるだけの最低限度の権力」を万人が所持するという事態である。

これを、健康で文化的な最低限度の権力とでも呼ぼうか。

たとえばBIのない世界では、セクハラやパワハラを受けたとしても、会社を辞めて路頭に迷う可能性があるのなら、よっぽどでない限りは我慢するのがふつうである。住宅ローンの返済に追われているなら、上司が除草剤を撒くように命令してきたとしても逆らえないのがふつうである。モンスタークライアントの理不尽な要求にも、しぶしぶ屈するのがふつうである。

しかし、逆らって会社をクビになったとしても、あるいは出世街道が絶たれたとしても、路頭に迷うことが絶対にないとわかっていたならどうか? その場で上司の胸倉をつかむようなことができなかったとしても、多少言い返す人は増えるだろうし、少なくともさっさとやめることは比較的容易になるはずだ(まず反論の余地がないのはいまよりは増えるということである)。

「子どもの高い教育費を払うにはそれだけじゃ足りないから、結局権力は維持される」という考え方もあるだろう。だが、そのような社会においては、そうまでして子どもの教育費を稼ぐ必要はないのである。

親が子どもの教育費を稼ぐのはなぜか? それはたいていの場合は「子どもが将来路頭に迷わずに、家族を養えるだけの経済力を手にしてほしいから」だろう。「ウチの子どもにはぜったいロレックスをつけて欲しいから、モンテッソーリ教育をやってるんです」などという親はいないのである(多くの人も同様だ。ロレックスのために労働する人などほとんどいない。たいていは食っていくために労働するのである)。すると、はじめからBIが配られるなら子どもが大学に通えなくても構わないということになる。現状、受験を苦にした自殺が急増している現状をみると、これが改善であることは明らかであるように思われる。子どもも「受験で勝ち残って大企業に就職しなければ人生終了」といった価値観を内面化する必要はなくなるのである。

大学教育がもはや肩書の獲得競争でしかなく、費やされているリソースに対して子どもの成長や幸福、社会の発展にほとんど貢献していないことは明らかであるように思われる。一部の理系学生を除き、大学で学んだことなど社会ではほとんど活用されず、卒業する頃にはすっかり忘れ去られている。現に、大卒者や子ども一人当たりの教育費も右肩上がりで増えている一方で、この社会が発展しているとか、幸福度があがっているなどという実感は誰も抱いていないし、経済成長もしていない。受験も、就活も、「美味しいポジション」に座るための椅子取り競争にすぎない。言い換えれば、権力者になるための競争である。高収入の者が社会に価値を提供しているのだというプロパガンダが嘘であることはコロナ禍を経てもはや明らかになっている。高収入の者は椅子取り競争の勝者に過ぎない。社会全体が椅子取り競争で消耗する状況が、それで子どもが自殺するような状況が、良いことであると言い張るのは不可能であるように思われる。

そして、家庭内の権力構造にも変化が生じる。DV夫に悩まされる母親は、シングルマザーとして生きていけないことがわかりきっているからDVに耐え続けているのである。BIがあれば耐える必要があるだろうか? さっさと離婚すればいいのである。また、虐待される子どもも同様だ。自分の分のBIを抱えて友達の家にでも転がり込めば、さほど迷惑はかけないだろう。

権力がなければ環境問題も解決に向かうはずだ。金儲けのために無意味な生み出された広告、コンサル、ITなどのブルシット・ジョブは膨大にある。グレーバー『ブルシット・ジョブ』によれば四十パーセントにもなるのだ。こうした無意味な労働は、金のため(≒権力のため)にやるわけであり、万人に金が配られ金を稼ぐ必要性が薄れていくなら、さっさとやめる人は多いだろう。そしてブルシット・ジョブのためにビルを建てる必要もなくなり、ビルの材料の製造だけではなく、清掃やメンテナンスも必要なくなる。また、マーケティング合戦の果てに売れ残る大量の食べ物や服も、つくる必要がなくなるのである。SDGsのバッジをつけてエコバッグを大量に売らなければならない構造の方に問題があるのであって、そもそもエコバッグをつくらなくて済む状況にする方が手っ取り早いのである。

さて、家庭内においても職場においても学校においても権力によるストレスがなくなった社会で、誰が精神科に通い詰めるまで病むだろうか? 誰が過労自殺するだろうか? 誰が体を壊すまで暴飲暴食に走るだろうか? 健康問題も、ブラック企業問題も、もはや解決されたも同然である。

このように、金による権力構造がなくなるだけで、人類が頭を悩ませ続けたあらゆる問題が解決する可能性がある。多少リスクがあろうがやってみる価値はあるだろう。どうせこのままいけば、なんの問題も解決されるはないのだから(それはここ三十年の政府の働きをみれば明らかだろう)。


■人は働かなくなるのか?

最後に最大の問題について反論しよう。「そんな社会では、誰も農業や電気工事をやらなくなるだろう?」という問題である。

まずそもそも言えることは、農業や電気工事といったエッセンシャルワークに就く人はますます少なくなっていることだ。グレーバーによれば四十パーセントの人がブルシット・ジョブに就いていて、そのサポートをするエッセンシャルワーク(BSJに就く親の代わりに子どもの面倒をみる保育士や、ウーバーイーツ、家事代行、ビルや電子機器、電車の製造及びメンテナンスなどなど無数の職業)は膨大に存在する。そして、エッセンシャルワークの中身もブルシット・ジョブに浸食されつつある(介護職員がわけのわからない報告書につぎ込む時間はどんどん増えている)。また、先述の通り、エッセンシャルワークも過剰生産に追い詰められている。それでもこの社会がなんとか維持されていることが、そもそも奇跡なのだ。多くの人が労働をやめれば、もっと社会の維持に必要なエッセンシャルワークは減っていく。

そして権力によって強制されることがなくなったエッセンシャルワークは、もはや労働であることをやめる。金という強制によって駆動してきた社会は、社会を成り立たせる生産活動やケア活動を不愉快な作業へと貶めてきた。しかし、強制がなくなったとき、人はエッセンシャルワークの魅力に気づき始めるはずだ。

料理も、農業も、子育ても、モノ作りも、トラックの運転も、多くの作業は、強制されずに自分の意志と裁量で取り組むのであれば楽しいものである。強制されれば不快である。ただそれだけだ。

BIが実施された社会で、会社内にトップダウンの権力構造を維持することはほとんど不可能である。労働が不愉快な理由は権力によって強制されているからであり、自発的な意志と裁量で仕事をする人が楽しんでいるように見える理由はそこにある。自発的な意志でやるなら、人間はなにをやっても楽しめるのだ。

必然的に、エッセンシャルワークは気ままな遊びと重なっていくはずだ。

江戸時代の人々が過酷な肉体労働(と見えるもの)を鼻歌を歌いながら楽しんでいたのは、彼らが現代的な強制という意味の労働に服していなかったからである。狩りや農業といった生産活動を「遊び」や「踊り」という言葉で表現する民族が存在するのは、彼らの社会に「労働」が存在しないからである。

労働とは他者より強制される不愉快な営みなのだ。BIが実現した社会においては、労働はほとんど消えていく。そして、自発的な貢献で社会が組織化されていくのである。

要するに「金を配ったら誰も有益なことに取り組まなくなる」という考えは誤りであり、「金が配られてないから誰も有益なことに取り組まなくなっている」という方が正しい理解なのである。金儲けをしなければならないなら、有益なことをやっている場合ではない。権力獲得競争にて勝者を目指さなければならない。しかし、金が初めから配られるなら金儲け以外には何の役にも立たないくだらない権力獲得競争が消え去っていく。そして人々は真に有益な活動に着手できるというわけだ。人は誰かの役に立ちたいという欲望「貢献欲」を持っているし、スキルアップしたいという欲望「成長欲」や、プロジェクトを最後まで成し遂げたいという欲望「達成欲」など、さまざまな有益な欲望を持っている。権力や金銭へ向けざるを得なかった人間の欲望の大半は、これまで挫かれてきた有益な欲望へと自ずと流れていくだろう。欲望は解放されるべきなのだ。

(仮にそれが有益な欲望に流れなくても構わない。不愉快なうえに役に立たない労働をするくらいなら、自己満足だろうがせめて本人が愉快になれることをやる方がいいことは疑いようがないからである。)

権力の廃絶とは、労働の廃絶である。そして、BIはその大きな一歩になる。BIが政府権力の増大につながるという批判を行う人がいるが誤りである。先述の通り、権力とは金をどこに配るかを決定する能力に宿る。BIとは万人に自動的かつ強制的に金を配るシステムなのだ。決定権は誰も持たない。財務省でもなく、生活保護の窓口職員でもなく、岸田文雄でもなく、ジャニーさんでもない。ただ、国会で一度だけ議決されれば、あとは誰の恣意的な意図も介在することなく自動で回っていく、真の意味での社会契約だと言えるだろう。


■インフレは起きない(と思われる)

インフレというのは、需要の増大に対して、供給能力が追い付かないときに起きるわけだ。現在、モノは有り余っていて、「モノが売れない時代」とかなんとかいって無理やり民間が需要をつくりだそうとしている状況にある。営業や広告、マーケティング、コンサル、データサイエンスといった業務に携わる人々は、究極的には客の財布の口を開けるために九時から五時まで(たいていの場合はそれ以上の時間を)馬車馬のように働いているわけだ。

需要がなく、供給は過剰。このような状況で、ちょっとやそっと金を配ったからと言ってインフレが起きるとは考えづらい。

それに、天下取っても二合半である。金がもらえたからといって、一日一個ブロッコリーを食べてた人が、一日に二個ブロッコリーを食うようになるとは考えづらい。せいぜい、これまでは慣行農法でつくられた安いブロッコリーだったのを、より環境負荷が低く安全な有機農業のブロッコリーに変える程度だろう。有機農業や自然農法によってつくられた野菜の需要が高まることによってノウハウ蓄積と生産性向上が起き、逆に価格を押し下げる可能性すらある。あるいは、外国産の家具ではなく国産の家具を買うようになれば、国内林業の活性化が進み、国産木材の低価格化もあり得る。結果として災害対策や花粉症対策、CO2削減にもなる。環境負荷や資源不足を考えれば、遅かれ早かれ地産地消化はやらなければならないのだ。こうした動きが良いことであることには疑いの余地はないだろう(万が一、積極財政により極端な円安が進んだとしても、地産地消化されていれば、ダメージは最小限にとどめられる)。


■最後に・・・

ここまで書いてきたことは、おそらく池戸万作さんをはじめとした反財務省の方々の考えと必ずしも一致しているわけではないだろう(僕はGDPのことは微塵も気にかけていない)。多くの異論もあると思う。とはいえ、敵の敵は味方である。財政均衡論への批判や国債発行によるBI導入という意見は一致している分、連携していきたい。なので、いつになるかはわからないが、僕もデモに参加したい

アンチワーク哲学について詳しく知りたい方は、6月15日発売予定の『14歳からのアンチワーク哲学』を是非チェックして欲しい。こんな無機質な「だ・である調」ではなく、14歳でも読める小説形式で、今世紀最重要哲学をわかりやすく伝えている。

ちなみに無料で全文公開している。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!